その程なく九月八日になりて、「この売掛とれ」などいひて、十四五人の手代、この物縫屋へ行く事をあらそひける。その中に年がまへなる男、恋も情もわきまへず、夢にも十露盤、現にも掛硯をわすれず、京の旦那のために白鼠といはれて、大黒柱に寄添ひて、人の善悪を見て、そのかしこさ又もなき人なるが、おのおのが沙汰するを聞きてもどかしく、「その女の掛銀は我にまかせよ。済まさずば首ひきぬいても取って帰らん」と、こらへずたづね行きて、あらけなく言葉をあらせば、かの女さわぐけしきもなく、「すこしの事に遠く歩ませまして、近頃々々迷惑なり」といひもあへず、梅がへしの着物をぬぎて、「物好きに染めまして、 きのふけふ二日ならでは肌につけず。帯もこれなり」となげ出し、「さし当りて銀子もなければ、御ふしやうながらこれを」と、泪ぐみて、丸裸になって、くれなゐの二布ばかりになりし。その身のうるはしく、しろじろと肥えもせず、 やせもせず、灸の跡さへなくて、脂ぎったる有様を見て、随分物がたき男、じたじたとふるひ出し、「そもやそも、これがとつてかへらるる物か。風がなひかうとおもうて」と、かの着物をとりて着するを、はや女、手に入れて、「神ぞ、情しりさま」と、もたれかかれば、この親仁、颯り出して、久六呼びて、挟箱を明けさせ、こまがね五匁四五分抓み出し、「これを汝にとらするなり。 下谷通に行きて、吉原を見てまみれ。しばらくの隙を出す」といへば、久六胸轟かし、、
これに比べれば、「伊豆の踊子」の裸のシーンなどかわいいものである。もう既に研究されているところであろうが、川端の主人公が学生であることは大きい。前提として、学生ごときは、旅芸人の一座の少女に比べても潜在的に下位なのである。上の場面だと、人物たちは着物や金銭のやりとりで相手の行動を決定してしまう、経済的人間である。「金色夜叉」のあやつを出すまでもなく、学生が前で経済人は後である。逆はない。――ということは、経済人の方が成長した後の状態であって、学校が尊敬されるのは国家や学問の権威によってであるにすぎず、それがなくなれば、前段階のサービスエリアと化してしまうわけである。学校の先生は、サービスエリアの売り子になってしまう。
教員志望者が減っているのはいろんな理由がありそうだが、あらゆる教育の理念(崇高さ)を骨抜きにして教員をただのサービスエリアの対応マシーンに育てようとした一部の動きが最悪であった。もっとも、社会そのものが、どういう人間を育てたいのか分からなくなってしまったのも大きい。どのように生きたらいいのかは「お前が考えろ」、あとは支援しますみたいなのは、一部には幸福だが、多くの人間を砂漠に放り出したようなもんだ。
砂漠と言えば満州である。小泉譲についてはこの前学会発表もあったけど、『列車の中で 金正日物語』しか読んだことがない。満鉄の調査部で働いていた小泉は、中国的な壮大さと結びつけられることも多いと思うんだが、こういう作家は不思議である。安部公房の裏側の顔は、案外小泉みたいなところがあるような気がする。安部公房の特徴でもあろうが、ヴィルドゥングスロマン的な人生が崩壊し、子どもに戻ったり大人になったり、虫になったりと、めちゃくちゃなのである。太宰の子どもらしさも、三島の思春期も異化的な演技だが、安部は違う。たぶん花田★輝の動物とも違う。ここらあたりをいま論文で構想中であるが、なんともいやな気分になりそうだ。