だれにも、あらゆる魅力がひとしなみに与えられたことなど一度もなかった。(ラ・ボエシー『フランス語詩集』一四)
というわけで、弁舌の才に関しても、次のようなことがよく見受けられる。 いとも容易に、ぽんぽんとことばをくり出して、闊達自在であって、いつでも平気な人がいるいっぽうで、口がおそくて、用意周到に、あらかじめよく考えてでないと、口をきかない人もいる。そういえば、ご婦人方には、自分の肉体のいちばん美しい点を生かせるような運動を選びなさいと勧めるのが常である。これと同じで、弁舌なるものの、ふたつの利点について意見を求められるならば、現代では、説教師と弁護士が、弁舌のプロということらしいが、口がおそいのは説教師にいいし、 はやいのは弁護士にいいと思う。
――モンテーニュ『エセー』(宮下志朗訳)
誰にでも優れた性質が等し並みにあたえられるなどということはない、みたいな言葉が引かれ、それが向いている職業を作り出すみたいな文を導く。しかし、現代の「みんな違ってみんないい」は、なぜか、みんなが等し並みな何かになれるみたいな幻想にむかう。
おそらく、これは、金子みすゞが想定していたより詩句が大衆に膾炙した場合に、起こったことである。詩の中での「みんな」は、三つぐらいのサブジェクトを示しているに過ぎない。これがほんとの「みんな」を読者が自分のことだと思う現実を読者が認識すると、意味が変わってしまったのである。
このまえ「悪魔」「続悪魔」を読んでいて思ったのだが、――この谷崎の作品に限らないが、症状みたいな描かれ方を伴っている人物には異常性が最後まで貫かれず、かえってモブ的なところにそれが移動する。むろん、これが移動しすぎると話が壊れちゃうはずである。しかし現実ではそのストッパーが壊れているのであって、こんどはその異常性は、平均的な属性に転倒する。
例えば、現在が多くの穴の空いた何かであるのに対し、過去と未来、特に過去が「みんな」になりがちなのも当然である。過去を乗り越えようとするとき、現在と未来はとりあえずぼかしておくことが出来るので無傷だし、現実は複雑すぎて手におえない。が過去は明瞭にならないと乗り越えるというロジックそのものが無効化してしまうので、つい過剰に明瞭に「みんな」にしてしまう。だから、かえって明瞭に生成されてしまうのは「差別される対象」である。フェミニズムからのバックラッシュなんか、原因はたぶんそこである。