結局、人間の目標とは、それを認識するものがじぶんしかないので、あらゆる自己欺瞞が可能である。しかし、そこに神頼み(神仏への依存)が挟まると、信仰の程度にも因るだろうがあるていど、その認識が自分から自分への循環だけでなく、神仏からの贈与や直接的批判が可能になり、自己欺瞞の程度が低くなる可能性がある。全ての場合そうではない。とくに戦争の時とかは神頼みは自我の肥大に関与してしまう。が、平時の大したことのないエゴイスティックな日常の神頼みには、可能性がある。
ということで、神頼みの有効性は条件としての平和がくっついているのであった。で、そういう場合、平和を願うとなったらどうなるのか?