★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

パンドラの収容所にて

2025-01-26 23:59:37 | 文学


献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、と力強く、諄々と説いている。聞きながら僕は、何度も赤面した。僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。献身の身支度に凝り過ぎた。お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」


――「パンドラの匣」


新婚当初住んでいた古い一軒家の狭い裏庭が、「伸びてゆく方向に陽が当たる」状態だったのか知らないけれども、とにかく雑草だらけになって、洗濯物をそのうえに干すのが気分悪くなってきたので、除草剤をまいてよし枯れたぜと喜び合っていたところ、次の春になんか兇悪なとげとげの草が大繁殖して、その上に洗濯物をほすなど、まるでカンダタの気分であるという事態に至ったことがあるが、――思うに、社会というのもそういうところがあるのではないだろうか。気分が悪いからといってそれを排除するともっと強いヤバイ奴がくるという。

横光利一のなにかの小説では、なんか嫌な予感がするだけでなく病気が治らないので、引っ越したいみたいな話があったようなきがする。これなんかまだ「ぼんやりとした不安」みたいなものであった。しかし、このあと、国家自体が新しい家としての病棟と化したのはみなの言うとおりで、上の小説なんかはそれを描いたものである。いまどきの医者なんかは、戦時下の健康政策が優生思想そのものであって、ファシズムの歯車だったことぐらい習っているのであろうか。ファシズムは排除の思想をとるより前に、お前の代わりはいないから死ぬまで働け、という思想である。それは、医学の発達や生物学の進展の必然性でもあったわけだから、悪意の帰結というより学的良心の帰結であったと自覚すべきである。

よく越境的な知とか言うアカデミシャンがいるが、普通のお仕事の世界では、他人の仕事の領域にむやみに上がり込んだら殴られる。炊飯ジャーの進歩は凄いが、これに小説家が文句を言えた義理ではないのは当たり前だ。しかしこれが許される気がするのが「学問」で、医学なんかはセフティーネットを超えて生活倫理となりたがる。これを真似たのが人文科学と称する文学で、教科書に採択され精神の薬となって我々を縛っている。最近は、知のプライドと忙しさによる品性の劣化によって、復讐にも似た感情で生活の支配を狙っている二者であるが、コロナ騒動で完全に前者に軍配があがった。が、あいかわらず世間の奴隷に転落した点は両者引き分けといったところだ。

健康が善とかいう考え方と、個人に最適な生き方を探すみたいな考え方が両立するわけがない。

体の状態をはかる様々な数値を、勉強の成績に喩える医者とかいまは実際におり、こういうのは、体力測定で勝ったとか言って虚弱児をいじめている幼児と同レベルであるが、屡々、我々はそういうことをやってしまう。国家レベルでそれが政策になると、この前の戦争の時みたいになる。

小さい頃、病院ばっかり行ってたし、小児科の看護婦さんたちから年賀状をもらってうれしかったからよくかわらんかったが、――あるいはいまは違ってしまったのかもしれないが、病院が妙に工場みたいになっていると聞いている。ほんと陳腐な意見だけど、学校だけじゃなかったというわけだ。

そういえば、トランプは最高齢の大統領で、前任者と同様歳とっているにもかかわらず、死ぬまで働くみたいな頑強さを備えているように見える。これは以上のような意味で、非常に象徴的である。

階級闘争の時代――貞子3Dと袴を着けたシェーンベルク

2025-01-26 01:16:03 | 思想


 在來一切の社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である。
 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルド(同業組合)の親方と徒弟職人、一言にすれば壓伏者と被壓伏者とが、古來常に相對立して、或ひは公然の、或ひは隱然の鬪爭を繼續してゐた。そしてその鬪爭はいつでも、社會全體の革命的改造に終るか、或ひは交戰せる兩階級の共仆れに終るのであつた。
 上古の諸時代にあつては、殆んど到る處に、社會を種々な等級に分けた複雜な排列法、社會的地位の種々雜多な區分が行はれてゐるのを見る。すなはちローマの古代には、貴族、騎士、平民、奴隷があり、中世には、領主、家來、親方、徒弟、農奴がある。そしてなほその諸階級の殆んどすべてに、またそれぞれの小區分がある。
 封建社會の滅亡から發生した近世のブルジョア社會も、階級對立を除去してはゐない。ただ新しい階級をつくり、新しい壓伏條件をつくり、新しい鬪爭形式をつくつて、昔のに代へただけである。
 けれども、我々の時代、すなはちブルジョアの時代は、この階級對立を單純化したといふ特徴をもつてゐる。全社會は次第々々に、相敵視する二大陣營、直接相互に對立する二大階級に分裂しつつある。すなはちブルジョアとプロレタリヤである。


――「共産党宣言」(堺・幸徳訳)


いまの事態を、米帝がРоссійская Имперія化して、ついに全世界的に「帝国主義戦争をせんでも社会主義革命」の段階に到達したとレーニンなら喜ぶであろうか?ともかく、日本での安倍や麻生に対する相反する運動をみてみても、そこにネットや学歴やらが絡んだ階級闘争だったのはあきらかであって、トランプ現象の場合もそうであるにちがいない。叛乱を起こすのは、感情的な意味での奴隷たちであって、正義を持つものとは限らない。マルクスがいうように、ブルジョアジー的な、ようするに、文化的空間に閉じ込められた人間が多い空間では、対立は、言葉の性質に随って、二大対立物の激突となる。

いま、医学界とか教育界は、ブルジョア的心情の元に奴隷と化しているから、従業員たちは基本的に叛乱モードである。そういえば、安部公房や手塚治虫が医学出身ということで、医学業界が正気を保っていた側面は、ユープケッチャの一歩ぐらいは存在しているに違いないし、漱石が学校の先生であったことが、先生たちを支えていたところがあるのだ。それがなくなったら、ただの闘争集団である。

マルクスの共産主義者宣言というの、われわれはずっと階級闘争ばっかしてきているんだとは言っていても、正義は勝つとは言ってねえと思うんだが、学生に読ませると、いまは情報通信がすごいから正義の階級闘争は起きないとか、情報通信の発達に拒否反応のある旧世代に階級闘争を仕掛けてくる。そういえば、「リング」の続編は様々につくられていて、このまえ、石原さとみさんがでている「貞子3D」をみたけど、貞子はざらざらのビデオテープじゃなくて、パソコンやスマホから3Dででる、むしろ鮮明にでてくると主張していて、まさに、スマホ世代の階級闘争をみたね。

そういえば、東浩紀氏の『動物化とポストモダン』がでたときに、なるほど、ポストモダンな知識人に対する動物みたいなオタクさんたちの階級闘争が始まったと言っているんだな、と思ったが、怒られそうなのでだまっていた。東氏自身が、その闘争をみずからに感じており、案の定、どちら側からも批判されることになってしまった。わたくしはずるかったから問題を超克するんだという態度だったが、それこそ、「近代の超克」みたいな逃避に他ならなかった。

さきほど、石桁真礼生の「卒塔婆小町」(三島由紀夫)が「クラシックの迷宮」でやってたが、はたして、三島がこういうものを望んでいたのかはわからない。たぶん違ったような気がする。石桁真礼生の交響曲って、中学生だかのむかし聞いたんだが、袴をつけたシェーンベルクみたいだなとおもった。