自ら、幾所か介添して見およびしに、恋の外、さまざま心のはづかしき世間気、いづれの人も替る事なし。ある時、中の島何屋とかやへ介添せしが、この子息ばかり、我に近寄りたまはず、見掛けより諸事をうちばにして、初枕の夜も何のつくろひなしに、首尾調ひけるを、さもしくおもひしが、この家、今にかはらず、その外は皆、その時よりはあさましく、奥さまも駕籠なしに見えける。
介添え女の感想をのべただけのように見える一代女の一節であるが、恋心以外の恥ずかしい世間体――「さまざま心のはづかしき世間気」をどれだけ彼女は見ていたのであろう。読んだ感じだとそれほど多くの事例を見ていない気もする。しかしこれは数の問題じゃねえのだ。「さまざま心のはづかしき世間気」の観点で見りゃ三例もあればわかるからである。
我々がとりつかれている数的な量とはいったいなんであろう。業績馬鹿につける薬なし、みたいに、あたかもそんな羞恥心が常識としてあるようなふりして相対化してしまうのはよくない。ますます量にとり憑かれている人を意固地にさせるだけである。言われた方は、そんなにルサンチマンはないんだよと悲しくなるであろう。問題は量と質の問題ではない。
我々の世間は、「世間気」ほど狭くはなくなっている。コモンセンスが夢みられて、大新聞なんかはそれを担おうとしたのであるが、たぶん最近は失敗している。演習で、朝日と讀賣のコラムをまじめに比べてみて、今日的常識とは何かを考えてみているのだが、――やっぱりいっぱしの書き手の文章の注釈のとはちがった難しさがある。私は、作品としてあまり価値がないものを扱うときの知恵をつけたほうがよい、特に教育学部とか医学部とかでやったほうがよい、と思っているからやってるわけだが。少なくともわかるのは、彼らのコラムが基本的に固定観念に対する差異化、もっといえば「革新」的態度をとっているぐらいのことだ。
数的な量への偏執は、このような差異化の運動である。これはどうみてもネオリベ的商人のそれである。
さっき大河ドラマをすこしみたけど、吉原の本屋の話であった。しかしまあ、吉原のために警動してくれとお上に頼んだら、売れるための自助努力しとんのかわれと言われて「ユリイカ!」となる、どこぞの大学じゃねえか。やはり必殺仕事人とか必要だな、その場で田沼を切り捨てるところの。――それはともかく、主人公の蔦屋がつくったのは、「吉原細見」、風俗案内というより、遊女たちの名鑑、差異化の見える化である。網羅的だから数的にすごいようにみえるそれは、隣と隣が違っていれば成立する。女子学生をたくさん載せている大学パンフレットとおなじである。
とにかく星ひとつ二十銭の岩波文庫を、安いというだけの理由で片っ端から買いこんで読んだ。[…]「あしながおじさん」、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」、シュトルムの「みずうみ」、ハイネや石川啄木の詩、そして、北上民雄の「いのちの初夜」には子供ながらにも強いショックを受けた。
60銭で買える岩波文庫を、撮影の合間に読むのが楽しみでねぇ。それと、何より自分の周りを見ることが一番の勉強でしたね。何でも、気持ちの持ち方ひとつです。バスに乗っている人や、隣でご飯を食べている人を見るのも大変に勉強になります。
高峰秀子は映画労働者であって、世間からも親からも会社からも搾取された。彼女がとった抵抗は、岩波文庫を読んで知的になることであった。これは何冊読んだからよいというものではない。読まなければ虫けら同然に扱われてしまうからだ。小学校もろくに行ってない秀子様が仕事の合間に岩波文庫を読んで頑張ったというのに、おれたちときたらほんとぐずぐずさぼりやがって、ほんとしょうがねえやつらである。――はっ、もしかした俺たちはすかした研究とかじゃなくて、小学校に行かずに俳優をやれば岩波文庫をよめるのではっ。あながち間違いではないと思うのである。
最近、ネット上で、岩波文庫全部読めよ、みたいなことを言った哲学者が、実態と合ってないとか、指導とはいえん、とか岩波権威主義とかいろいろ言われていたが、文庫本をたくさん読むぜみたいなのは、隣と違ったものを書けばよいみたいな「吉原細見」的存在に対する抵抗だったのである。
だいたい岩波文庫全部嫁みたいな言い方は「ロケットパーンチ」や「199X年、世界は核の炎に包まれた!」みたいな、追いつめられた男性労働者のマッチョな幻想としての叫びであって、それに対してリアルにツッコんでもしかたがない。しかしフィクションに釣られないとリアルな行動はありえない。現実に最適化しようとすると我々はどうせなにもしないではないか。実際、ガンダムをぜんぶ制覇する勢いで資本論やゲーテを読んでしまうやつはいるわけで、そういうブルドーザみたいなひとたちに勝つために、凡人はえっさかほいさと読むしかないのだ。
わたくしもほぼ家具と化したハードカバーが並んだ家には生まれたが、精神はプロレタリアートであって、文庫から知的風景を飲み込んだ。岩波文庫の思い出は、吉野源三郎とかロマン・ロランとかウェルズで、いまでもそれを文章を風景みたいに記憶している。こういう経験をもっとたくさんしていたら、というプロ出身のインテリゲンチャの思いがとりあえず全部読んどけみたいな言い方になるのである。風景は果てしなく広がるはずだというかんじね。。
戦前も、大学生のプチブル化が進んでいて、戦時中なんかやたら読書入門みたいな本が出ている。中には、竹下直之の「師魂と士魂」などがあって、読書論が大きなテーマである。西田幾多郎に習ったことがある彼は、西田に「絶えず問題を逐へ」と言われたんだと書いていた。とにかく永遠に問題が逐えるんだという確信があれば、自分の一生なんかはその逐う行動の一部にすぎなくなる。岩波文庫全部読むのはむろん無理だけど、読めと言ったほうがそのほうが「逐う」かんじがしてよい。それにしても「問題を逐う」とは、問題を追いかけることなのか、既成の問題を排除することだったのか、竹下もそこはぼかしていたような気がするのであるが。
そういえば、ショーペンハウアーが、読書は自分の頭じゃなくて他人の頭で考えることなんで、多読するとむしろ頭の悪い学者みたいになるぜ、――みたいなことを言ってるのは有名である。確かに、読書好きは他人の頭に自分の頭を預けるみたいなことに快を見出す性質の人だというのはあると思う。それを頭の悪さと言うのはありだが、たいがいそういう頭の悪さがないと、人は勉強も読書もしないことはたしかだ。「書を信じきれば書を読まないのと同じ境地だ」みたいな格言があるけど、書を読み続ける人がいつも信じ切るほど頭が良くならないことと裏腹である。西田は今は蛙、明日はイモリ、みたいなのが人間だといっているところがある。しかし西田派の一部が狂ったのは、蛙を信じ切ればそれは人間だと思ったことによる。