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かかるほどに、蔵人の少将の御方なる小帯刀とて、いとされたる者、このあこきに文通はして、年経て、いみじう思ひて住む。かたみに隔てなく物語しけるついでに、この若君の御事を語りて、北の方の御心のあやしうて、あはれにて住ませたてまつりたまふこと、さるは、御心ばへ、御かたちのおはしますやうなど語る。うち泣きつつ、「いかで思ふやうならむ人に盗ませたてまつらむ」と、明け暮れ「あたらもの」と言ひ思ふ。
落窪の姫がいかに素晴らしいか、すなわち必ず望通りのひとに盗ませたてまつる(連れ出させてさしあげたい)というあこぎであるが、――そういえば、木曽殿も、京都に闖入した後、「官軍悉く敗績し、法皇を取り奉り了んぬ。義仲の士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉り了んぬ」みたいな闘いをしたはずである。義仲は院を自分のようなプロレタリアートの世界に連れ出した。院やその他諸々の方々が激怒したことは言うまでもなし。
思うに、貴族的なものをやたら連れだしゃいいというものではない。
このまえ同僚の先生にいわれたが、わたくしは卒業論文中間発表会や口頭試問とかで機関銃のように楽しそうにしゃべるということである。内省するまでもなく、その通りである。わたくしはいろいろなことが楽しくてしょうがないのでやってるのである。めんどうなのはなんとか委員長とかだけである。わたくしは好事家以上に享楽的な貴族的文人である。
そういうわたくしからみれば、教育学や文学研究の「科学化」はさしあたり副作用が大きいことが、学生の卒業論文や様々な論文をみてて思われる。研究の手続きをとることに集中するあまり、そもそも対象をじっくりながめて観察することで生じる率直で精確な主観が削ぎ落とされ、結果、先行研究との「つまらない差異」だけがでてくることになりかねない。豊かで精確な主観には最初から未来が先取りされているから、手続きは超えるべき山脈ではない。つまりけっこう楽しい作業になるのだが、しかし、はじめから科学をやろうとするとそうでなくなるのだ。
いわゆるリテラシー能力みたいなものもそうで、真偽を検討する手続きに集中しようとすると逆にそのプロセスで生じた間違いを信じこみ、その問題=既成の枠組みを疑えなくなる。大事なのは、最初にどう見えたか、を検証でぶちこわすことではなく、最初の見え方の質なのである。一概に言えないことだけど、研究を始める前にその質に精確な楽しさがない場合は、何をやっても仕方がない。しかしこの楽しさは、対象に対するわかりやすさとか親しみやすさとかとは関係がない。初等教育などで、勉強への親しみやすさとかわかりやすさみたいなのを、勉強のモチベーションにすることによって、学生たちは妙な道に迷い込んでいる。
教育上の論文審査(口頭試問など)で必要なのは、ほんとは学生が何をいいたいのか読解することである。書いてあること、書かれていないことをそのまま受け取るのは、本質的に文章を読む行為として本来おかしい。過剰に学問化するとこういうこともおかしくなってしまう。学部の論文だからそのぐらいの読解をすべきだというわけではない。学問が人間の本質へ向かってのものではなく瑕疵の修正だとおもってしまうタイプの人間は、PDCAサイクルとかを平気で信じこむ頭の悪い社会に影響を受けすぎている。まったく冗談であるが、マルクス主義の「修正主義」とかがタチが悪かったのはそういうことなのである。
我々は、もはや放っておけば成り立つであろう以上のような常識を失った。しかし、教養主義の没落とか人文学の没落とか、そういう時代だか環境だかで変容しつづける群れの話をしても仕方がない。確かに、多くいないとレベルが下がったり本が出なくなったりというのはあるけど、ほんとにやる気のある感覚のよい楽しい方はその程度でやるべき事をやめたりはしない。