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八月朔日ごろなるべし、君ひとり臥して寝も寝られぬままに、「母君、われを迎へたまへ。いとわびし」と言ひつつ、
われにつゆあはれをかけば立ちかへりともにを消えよ憂き離れなむ
心慰めに、いとかひなし。
お迎えにクルのは親であり死者である。しかしポイントはともに死んでくれることである。そうなることで憂鬱から離れられる。ということは、死者でなくても「ともに」いてくれれば良いことになりそうである。本当に死にたがっている人はこういう感じではないかもしれない。姫の絶望の中には簡単に解決されそうな要素が混じっている。「ともに」は、死んだ親への感情であるとともに、感情の二重性をも示唆してしまっているかも知れない。
例えば、宴会などに、この「ともに」の重要性は現在可能なのであろうか。そもそも飲み会という言い方が良くない。てめえが飲んで楽しくするのが目的みたいな感じがする。ハラスメントの原因もそれであろう。元来こういう行事は全員が他人のためにするものであって、その目的自体ははそれ自体がきついんで、引き替えに美味いもんを摂取できるぐらいのものだ。時間をかけて、宴会にでてるやつのナルシシズムがひどくなっていたんだとおもうが、それで、なんでこんなのに付き合わなきゃならんのだ、と思う人間が増えた時点でもう存続が危うかった。いまや、気の利く奴が気の利かない奴の摂待をする場になりがちである。
だから、こういう場合もかかる場への全否定が行われがちであるが、その判断自体は非常に陳腐なことである。絶望しているつもりでその実顕れているのは、みずからの思考の形式性である。絶望的なもののなかに「ともに」の要素が入っているのに気がつかない認識の問題だ。そういえば、――例えば、加速主義だか更地から第二の青春とか言いたげなタイプは、なにゆえ崩壊過程がその実形成過程でもあって、崩壊すると見せかけて何かの形成が行われるかもしれない、というか、必ず行われているという面を見ないのか分からない。トランプや安倍によって崩壊だけが起こるわけがないではないか。