★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

読書コスパ論と骨

2025-01-17 23:20:46 | 思想


私はしばしば若い人々にいうのであるが、偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というようなものを掴まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。偉大な思想家には必ず骨というようなものがある。大なる彫刻家に鑿の骨、大なる画家には筆の骨があると同様である。骨のないような思想家の書は読むに足らない。顔真卿の書を学ぶといっても、字を形を真似するのではない。極最近でも、私はライプニッツの中に含まれていた大切なものを理解していなかったように思う。何十年前に一度ライプニッツを受用し得たと思っていたにもかかわらず。

――西田幾多郎「読書」


上の阪本一郎の『読書指導』(昭25)なんかをみてみると、「読書興味の発達段階」とかいって、おとぎ話は六歳で卒業、少年文学や友情物語は十三歳で、冒険探偵ものは十五歳で卒業しあとは思想・純文学・通俗文学に、十九歳で宗教にめざめることになっている。現代人はこれを笑うだろうが、ある意味、コスパの強制であって、これが、自由にささっと読むのがコスパがよいことになっただけだ。

ひとは、西田幾多郎の言う「骨」をいつ看取して読みはじめるのか?西田はおそらく、その骨を使えるようになる感覚がはじめからなんとなくあるのではないかと考えたんじゃないだろうか。

例えば、先日亡くなったディヴィット・リンチなんか、骨のありそうな作家だとみんな気がつく。だから、ルッキズムや差別やアメリカニズムやベイガニズムに気に取られることがない。なにしろ、かれは死んでも関係がなく骨が残ると信じていた。リンチはたぶんコンセントからでてくる(死の部屋から帰ってきた「ツイン・ピークス」のFBI捜査官のように)から大丈夫だろう。死んだけど生きてるタイプである。――とみなに信じこませた。「ツイン・ピークス」でも、第一話でいきなり主役?の美女が死んでるにかかわらず、その女優使って従姉妹か何かをだしてきてもう一回殺している。でもまたなんとかロッジみたいなところで生きてるみたいなことにして、生と死をつなげて永久機関みたいにしているわけだ。すばらしいアイデアで、人は死んでも演じてた人を出せば生き返ることになり、つまり、自分を演じている人をつくっておけばよろしい。また逆に演じたら演じている人がいなくても生き返る可能性がある訳である。

ウィキペディアを信じると、彼が死んだ説明がもうフィクションじみている。八歳からたばこ吸ってたとか、例の火事の避難先の家でなくなったとか、死んだ日が2説あるとか。。

そこに我々は、フィクションの仕組みとか死生観をみるが、たぶん「骨」のせいである。しかし、あまりにそれを言いすぎると小林秀雄みたいになってしまいそうであるが。。。


最新の画像もっと見る