然しながら、無きに如かざるの冷酷なる批評精神は存在しても、無きに如かざるの芸術というものは存在することが出来ない。存在しない芸術などが有る筈はないのである。そうして、無きに如かざるの精神から、それはそれとして、とにかく一応有形の美に復帰しようとするならば、茶室的な不自然なる簡素を排して、人力の限りを尽した豪奢、俗悪なるものの極点に於て開花を見ようとすることも亦自然であろう。簡素なるものも豪華なるものも共に俗悪であるとすれば、俗悪を否定せんとして尚俗悪たらざるを得ぬ惨めさよりも、俗悪ならんとして俗悪である闊達自在さがむしろ取柄だ。
――坂口安吾「日本文化私観」
私はむしろ「魯鈍」とかつい言ってしまうから太宰治に近いのだ。安吾の選んだ「俗悪」は独特だ。むろん、彼らには別の俗悪(Kitsch)の問題が目の前にあった。フリードレンダーが言うように、この俗悪さに立ち向かおうとする芸術は、ついその俗悪さに感染して、自分の刀が紋切り型に変わっていることに気付く。花田★輝は、その紋切り型がつい変形してゆく可能性を探っていたわけだが、そんな変形が都合良く起こるのか?と誰でも思っていた。戦争の時間だけはその変形を実現するかにみえる。それは錯覚である。
今日、野間宏をゼミで読んでいて、こいつ、「暗黒」のなんとやらの加速主義者みたいだという結論に達した。野間宏を
「飼育」とか「芽」とか目にしただけで大江健三郎をおもいうかべる私は、大江に恋をしているのではないだろうか。これにくらべると、野間宏とか三島に関係する文字を見ても何も浮かばない。彼らは、俗悪さをすぐさま普遍的ななにかに結びつけすぎているのではないだろうか。
世の中、悲しいことばかりである。
つい、ラーメンライスとか食べながら悪友と現代小説を片っ端から貶す青春時代に戻りたい、とおもったら、そんな過去はなかった。リベラルな学者達が一生懸命「想起」しようとした戦争の時代とはいったい何であろうか。勝手に戻ってきてしまうものであるから、想起するまでもなかったのかもしれない。勝手に想起されるものもある。野間宏の小説なんか、安部公房以上に、白昼夢で想起したことばかり書いている。わたくしが庭の蛙を好きなのは、きわめて個人的な事件に関係していると十一時頃気付いた。