吉田と会見した後の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧いて来る事があった。凡てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕の事実を手繰り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自のうちには必ず帽子を披らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えているくせに、何故自分の有っていたその頃の心が思い出せないのだろう」
――「道草」
悪いところじゃなくて良いところをみようというのが、多様性容認のロジックとして広範につかわれているわけだが、はっきりと排除の思想である。「悪いところ」はみずに自分の良いと思うところだけを見ましょう、なのだから。排除だけじゃなくナルシシズムも入っている。道徳と認識論は異なる。前者は、悪いと思ったことを否認して良いことに視野を絞れ、みたいな問題ではない。むしろ、われわれがみずからの認識をコントロールできない差別馬鹿であることを前提に、手前如きに言う資格はない、とか、悪口ばかりいいおって手前は性格最悪だ、とかいうゾルレンを存在させられるかという問題である。前者と後者は屡々混同されるが、最悪である。おそらく、我が国で司法がまともにはたらかないわけだ。
初等教育ではわりと常識だったはずだが、――教員が何を価値づけたかではなく、何を言ったかが重要である。自己肯定感とやらを守りつつ教育しようとして、失態に対して逆に褒めるところからはじめても、その「逆に」は効力がなく、なにを抽出されたが価値づけられてしまうからである。所詮、何かを無視して銭をためたプチブルジョアの特徴ではあるのだが。
むかしのプロレタリア文学が、労働者のレッテルを必死に労働者たちに貼り付けていたのは、いまもうそうだけど、労働者の意識が気味悪いほどクソプチブル的だったりするからである。そこはわかるわ、最近研究者たちもそうなってきてるから。