寒くなってきて、セーターなどだしてきて着たのはいいのだが、お腹になんかひっかかっていると思ったら、服の下にムシューダ入ってたわたくしですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
物言えば唇寒し秋の風、というが俺の田舎じゃ11月に人の悪口言ってりゃ本当に物理的に?寒い。何を相手にするにせよ誹謗すると最悪な意味で冬が来るのは、ソ連のある時期でもそうだった。物言えば凍結するよシベリヤで、である。いまもツイッターでしばしば凍結されているひとがいる。我々の遺伝子には、仲の悪くなった集団がアルプスの氷河にでもつっかかり全員死んだ記憶でもあるのであろうか。正直者が馬鹿を見たり、正直者が寒さに震えたりするのはなにか科学では解き明かせない領域の原因のためのような気がする。――これはただの感想である。
科学的なものには主観性のイメージを回避するためのさまざま工夫があって、論じる観点の偏りを見た目の観点のバランスによって隠蔽するやり方がある。それでバランスがとれ、つつがなく進行する、みたいな論文や報告書を書くのになれてしまうと、コミュニケーションの相手もそれに影響されてそこそこの「普通さ」しか反応してこなくなり、結局「問題」は出現しなくなる。ひいては価値判断もなくなってゆく。まさにみんなちがってみんなダメ状態となる。
こんなことは常識的な事態だが、あんがい現実では難しいこともある。人間、自分に対して価値判断が下されるときには理性を簡単に失う。
例えば、「問題」の出現をトラブルみたいに感じる人間は、コンプレックスや弱点の隠蔽が目的なんだから、ある程度無視するべきなのだが、いまはコンプレックスを合理化する理屈なんか星の数ほどある。批判を不規則発言ととらえる人間の叢生にはほんと驚かされる。これは、唇寒しどころではなく、ショスタコービチの「冬」なみの恐怖の出現である。例えば、面接や集団討論などが入試などに取り入れられるようになると、面接官などの偏った主観的判断が横行する危険性が言われることがあり、たしかにそれだけでも公平性は失われたと感じられるのだが、――現実的な問題は、むしろそういう「主観」を最初から回避することで、ものの見方が平板になり、「全員そこそこだよね」みたいな無価値状態が出現することである。
遠慮した判断が横行するような社会においては、やる気を出したら不規則に思われるし、そういう空気すら読めない無神経なバカが威張るし、みたいなことになるに決まってる。こうして、いまの世界の出現である。
論文でも批評でもいいが、ある部分を不明瞭に放置したり嘘をまぜたまま論を進行させると矛盾が出てきて詰まってしまう。だめな書き手はそこで嘘をつきつづける。正直なひとはそこで世界に対して嘘をつき続けることは出来ないと自覚する。文化政策にからまったアカデミズムがなぜ学問の進行を遅らせるかというと、世界への厳密さではなく達成度が問題となり、嘘が嘘と自覚出来ない魔空間にとらわれるからであるが、たいがい正直者が混じっているから自壊して、次の政策課題に移って行く。時間の無駄である。
政治的なものも文化的政策も基本的には同じであるが、人が多く死んでやっと気付く場合が多い。
吾々も過去を顧みて見ると中学時代とか大学時代とか皆特別の名のつく時代でその時代時代の意識が纏っております。日本人総体の集合意識は過去四五年前には日露戦争の意識だけになりきっておりました。その後日英同盟の意識で占領された時代もあります。かく推論の結果心理学者の解剖を拡張して集合の意識やまた長時間の意識の上に応用して考えてみますと、人間活力の発展の経路たる開化というものの動くラインもまた波動を描いて弧線を幾個も幾個も繋ぎ合せて進んで行くと云わなければなりません。無論描かれる波の数は無限無数で、その一波一波の長短も高低も千差万別でありましょうが、やはり甲の波が乙の波を呼出し、乙の波がまた丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。一言にして云えば開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘だと申上げたいのであります。
――「現代日本の開化」
夏目漱石はやはりそこはよく分かっていて、嘘をつかないために内発的な三角関係ばかりえがいていた。しかし太宰治みたいに、愛国心が内発的でなくなり、魔空間にとらわれた時代を過ごした人間になると、「嘘は方便」なものが混じってくる。
「戦争が終ったら、こんどはまた急に何々主義だの、何々主義だの、あさましく騒ぎまわって、演説なんかしているけれども、私は何一つ信用できない気持です。主義も、思想も、へったくれも要らない。男は嘘をつく事をやめて、女は慾を捨てたら、それでもう日本の新しい建設が出来ると思う。」
私は焼け出されて津軽の生家の居候になり、鬱々として楽しまず、ひょっこり訪ねて来た小学時代の同級生でいまはこの町の名誉職の人に向って、そのような八つ当りの愚論を吐いた。名誉職は笑って、
「いや、ごもっとも。しかし、それは、逆じゃありませんか。男が慾を捨て、女が嘘をつく事をやめる、とこう来なくてはいけません。」といやにはっきり反対する。
――「嘘」
前半の「私」の発言は漱石擬きである。対して名誉職は国策を欲の所産だとまだ思い込んでいる。こういう人間に対してはなかなかに正直に対しているだけではらちが明かない。それで、太宰は恋のせいなのかもっと違うもののせいなのか、読者に問うような小説ばかりを書いている。結局、恋愛は人世の秘鑰なりという断言が国の所業に対抗できなかった透谷以来の歴史を清算するつもりだったのかもしれない。
主人公の圭吾は軍隊には行かずに嫁がいる家に帰ってきてしまったのだが、嫁は夫を馬小屋に隠して嘘をついた。
圭吾は、すぐに署長の証明書を持って、青森に出かけ、何事も無く勤務して終戦になってすぐ帰宅し、いまはまた夫婦仲良さそうに暮していますが、私は、あの嫁には呆れてしまいましたから、めったに圭吾の家へはまいりません。よくまあ、しかし、あんなに洒唖々々と落ちついて嘘をつけたものです。女が、あんなに平気で嘘をつく間は、日本はだめだと思いますが、どうでしょうか。」
「それは、女は、日本ばかりでなく、世界中どこでも同じ事でしょう。しかし、」と私は、頗る軽薄な感想を口走った。
「そのお嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」
名誉職は笑わずに首をかしげた。それから、まじめにこう答えた。
「そんな事はありません。」とはっきり否定し、そうして、いよいよまじめに(私は過去の十五年間の東京生活で、こんな正直な響きを持った言葉を聞いた事がなかった)小さい溜息さえもらして、「しかし、うちの女房とあの嫁とは、仲が悪かったです。」
私は微笑した。