
また、北野の、神にならせ給ひて、いと恐ろしく雷鳴りひらめき、清涼殿に落ちかかりぬと見えけるが、本院の大臣、太刀を抜きさけて、
「生きてもわが次にこそものし給ひしか。今日、神となり給へりとも、この世には、我にところ置き給ふべし。いかでか、さらではあるべきぞ。」とにらみやりてのたまひける。
一度はしづまらせ給へりけりとぞ、世の人申し侍りし。されど、それは、かの大臣のいみじうおはするにはあらず、王威の限りなくおはしますによりて、理非を示させ給へるなり。
道真は「神」になったという。雷が鳴り響き清涼殿に落ちかかる。それに時平が反応してあなたは生きてるときも自分の次ではないか、としかりつける。神になったと言っても、わたしに敬意を払い給え、と。
いったい「神」とはなんであろうか。死んで神になるということはいかなることか。こうの史代氏の『ぼおるぺん古事記』は異様な傑作で、これをよむと、普通の人は読み飛ばしてしまう様々なる神々の生成が、必ずしも死の次の段階ではなく、我々が生まれるのと同様の事態として描かれているのがわかる。死と関係づけられたのは、例のイザナミとイザナギの件においてである。しかし、それにしたって、イザナミは死?にながら様々な神を生み出しつつ、黄泉の国に移動しただけでべつに消滅したわけではない。すべては増え続けている。
それにしても、『ぼおるぺん古事記』のイザナギがイザナミの腐乱する姿を見る場面がすごかった。八つの雷神を生成させながらウジにみまれ、寝ころびながらセンベイをほおばり足でテレビのつまみを操作するイザナミ。テレビには、「スクープ まさかの復縁か!!!?」と。
イザナミはまったく死んでない。こうの氏のマンガには明らかに死の影がちらついているのであるが、それでも嫌な感じがない理由が分かった。氏は死を生と見ていたのである。