
人は肉慾、慾情の露骨な暴露を厭ふ。然しながら、それが真実人によつて愛せられるものであるなら、厭ふべき理由はない。
我々は先づ遊ぶといふことが不健全なことでもなく、不真面目なことでもないといふことを身を以て考へてみる必要がある。私自身に就て云へば、私は遊びが人生の目的だとは断言することができない。然し、他の何物かゞ人生の目的であるといふことを断言する何等の確信をもつてゐない。もとより遊ぶといふことは退屈のシノニムであり、遊びによつて人は真実幸福であり得るよしもないのである。然しながら「遊びたい」といふことが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないといふだけのことだ。人の欲求するところ、常に必ずしも人を充すものではなく、多くは裏切るものであり、マノン侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかつた。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだらう。その意味に於ては人は苦悩をもとめる動物であるかも知れない。
――坂口安吾「欲望について」
そういえば、このエッセイについてよく考えていなかったと言うこともあるけれども、――わたくしにとって、長年、実感がわかないにもほどがある問題でもあったが、なんかみんなが重要だと言うから欲望の問題について考えることにした。これによって、とにかく根本的なやる気がないということはどういうことなのか考えることになるであろう。
例えばわたくしは、ルイ・エモンの「白き処女地」が大好きであって、ここに描かれている欲望とは何だろうと時々空想する。これは映画化もされたが、文月今日子のマンガが結構よかった記憶がある。「大草原の小さな家」をいい話として受け取って育ってきてしまった私だからであろうか。カナダの仏蘭西人移民が恋をしながら森に沈潜していくはなしを、なにか自動的によい話として受け取っているのであろうか。森や農村の恋、ツルゲーネフの「あひゞき」や藤村の「初恋」をまじめに受け取りすぎているのであろうか。