もちろん彼が聞いたのは、ベートーヴェンやシューマンではなく、その滑稽な演奏者らであり、その鵜呑みにしたがってる聴衆であって、彼らの濃厚な馬鹿さ加減は、重々しい雲のように作品のまわりに立ちこめていた。――がそれはそれとして、作品の中にも、最もりっぱな作品の中にさえも、クリストフがまだかつて感じたことのないある不安なものがこもっていた。――いったいそれはなんであるか? 彼は愛する大家を論議することの不敬を考えて、それをあえて分析して考察することができなかった。しかしいくら見まいとしても、それが眼についた。そして心ならずも見つづけていた。ピザのヴェルゴニョザのように、指の間からのぞいていた。
――ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」(豊島與志雄)