★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

仏生山公園と仏蘭西文学

2014-05-06 23:19:05 | 文学


仏生山の法然寺に到着。


パー


グー


整列


つり下げて


重ねて


つつじが仁王


つつじがわたくしを挟み撃ち


噂のクレーター


噂のクレーター


薔薇祭りにははやかった模様……


文句があるならベルサイユへいらっしゃい!


そのショコラが熱くなかったのをさいわいに思え!!


自由であるべきは心のみにあらず!


"貴族のやつらをしばり首♪"


"わたしの屍をこえていけ!"


オスカーーール!


私のアンドレ・・・!


ともに死ぬために戻って参りました…あなたの忠実な騎士にどうぞお手を…


フ…ランス…… ばんざ…い…!!


遭難者の手だってこれほど激しく絡みつくことはないだろう。彼女は僕に救助してもらいたいのか、それとも一緒に溺れてほしいのか、僕には分からなかった

渡辺淳一と愛の死

2014-05-06 03:16:00 | 文学


渡辺淳一氏が亡くなったそうである。
エッセイ集などもいくつか読んだことがあるが内容は失念した。
しかし「失楽園」とか「愛の流刑地」とかに全く感激しなかったかといえば嘘である。

三島の自決は問題提起的ではあったが、どうも太宰のような死を簡単に相対化しすぎるものであったようなきがする。ラディゲに熱中した三島がそのことをわかっていないわけがないが。
90年代、死に向かって生きることはどんなことか、という問題が、さまざまフィクションで語られていたにもかかわらず、いつの間にか、絆がありゃその問題を回避できるかのような言説によって有耶無耶になった。「エヴァンゲリオン」などで問題だと思ったのは、そんなところである。フィクションが子ども向けになっていくと何が問題かといえば、子どもは他人に猛烈に惚れたりしないからである。その猛烈さを描かなくてもよければ、人物は記号みたいにとっかえひっかえ出来るようになるのだ。惚れた相手が取り替えきくはずないではないか。しかし、我々の生の世界は案外、マルクスや柄谷が言うごとく、交通と交換で出来ており、それが滞るのは通行料をせしめる商人のところばかり。惚れた腫れた、はそんなもんとは違うものではなかろうか。

渡辺淳一がどんな人だったか知らないが、そんな事情だけはわかっていたのではなかろうか。映画『愛の流刑地』は、『シド・アンド・ナンシー』や『カンザスシティ』とかと似たようなものであるにしても……。