★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

憂国の士は街場のどこに

2014-05-19 20:02:46 | 思想


最近、シェーンベルクを聴きながらぼーっとしていることがあるが、この人の音楽はなんか中年になって心に響くものがあるような気がする。よく言われている気もしないではないが、ブラームスのような趣なのだ。……といった弛緩した印象批評はともかく、音楽のいいところは、感情の暴走が起きないところなのだと思う。音楽好きなら誰でも感ずることだと思うけれども、ある種の規則に乗って感情を動かすのが音楽であって、言葉の方がよっぽどアナーキーで危険だと思う。音楽家に感情的な人が多いのは、情感の芸術をやっているからではなくて、いつも規則に縛られているからではないかと思うほどだ。

現在のようなストレスフルな世の中、溜飲を下げることが自己目的化しがちなのは、政治家に限らず、みな我々はそうである。上の本で、高橋源一郎が、安部とお仲間達に対して、アンヴィヴァレンツな態度で、民主主義と相即的である「複雑」な「文学」を擁護するのは、よくわかる。しかし、安部さん達も案外複雑さから発言していると自分では思っているかも知れない。コンプレックスとはそういうもんである。だからといって高橋氏が明晰さこそそれを乗り越える道であるという一段階高いことを安部さん達に言えないのは、相手がその段階にないからだ。国語の教育課程で言えば……、知った風な口を叩く中学一年生に複雑さがあることを先ず知らしめるという教育段階では、むやみに生徒に明晰さを要求できないのと同じである。で、そのやり方であるが、案外合唱コンクールとか演劇大会とかが教育的だったかも知れないのだ。感情の複雑さが美を帯びるためにはどうするかを学ぶのは、音楽や演劇がいいなあ……。

上の本の中で、一番感情的にわかる気がしたのは、中島岳志の文章だが、同世代の彼のような文章家に対してアンヴィヴァレンツなのは二年前、ここで書いたことがある。今も同じ気分である。怒りは弾圧に対して強いようにはじめは思われるが、ぽっきり折れると打撃も大きい。我々の世代の中に相当いる、ロマン的な連中の危険性はそこにある。無論、街場によくいる、正真正銘の犬についていえば、ロマンも何もない精神の持ち主なので問題外である。