★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「薄汚い高校時代からのおびただしい追憶が」(北杜夫)

2014-05-01 19:20:35 | 文学


良いことが一つもなかった中学時代、図書館から一冊ずつ借りだしていたのは、巻頭に作品ゆかりの写真が多くついていた黒く重い文学全集だったと記憶していたのだが、このたび、それが学習研究社の『世界文学全集』だったと判明した。嗅いでみたら、当時の匂いがした。私が当時読んだ本ではないのに。

上はそのトーマス・マンの巻である。北杜夫の「トーマス・マンと私」が載っていて、かなりの部分を記憶していたことがわかった。北杜夫はトーマス・マンの墓前で表題の如き追憶に襲われ嗚咽したというが、人が泣く描写というとわたしは、まず北のこの文章を思い出すほどである。とはいえ、「トニオ・クレーゲル」は当時ものすごく好きだったはずなのに、その理由がいま思い出せない。小説を読んでみても、わからない。思うに、松本中学時代の北杜夫の傍らには辻邦生がいたが、私にはそういうのがいなかったのが大きいのではなかろうか。

60才ぐらいのマンは、ワーグナーについての講演が物議を醸し、市民の署名付きの抗議宣言によって家と財産を強奪され、国籍を剥奪されアメリカに行ったが、赤狩りでまたヨーロッパに逆戻り、スイスに落ち着く――中学生のわたしにとっては、この履歴だけで十分であった気がする。あるいは、マーラーの8番の初演を聴いたというので、うらやましかっただけかも知れない。


オモチャ箱の中の女房がもう自分ではない

2014-05-01 03:56:35 | 文学


 彼の人生も文学も、彼のこしらへたオモチャ箱のやうなもので、オモチャ箱の中の主人公たる彼もその女房も然し彼の与へた魔術の命をもち、たしかに生きた人間よりもむしろ妖しく生存してゐたのである。
 私は然し、彼の晩年、彼のオモチャ箱はひつくりかへり、こはれてしまつたのだと思つてゐる。彼の小説は彼の立つ現実の地盤から遊離して、架空の空間へ根を下すやうになり、彼の女房も、オモチャ箱の中の女房がもう自分ではないことを見破るやうになつてゐたのだ。

――坂口安吾「オモチャ箱」