★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

挑戦の研究

2019-05-22 23:21:35 | 思想


『9条の挑戦』という本の読書会に参加。冷戦下の昭和時代を知っている者が、安全保障のジレンマを偶然性による生成と考えるのに対し、最近の大学生は必然性によるジレンマに思えるようだ。第二次大戦のときもそうだったのだが、その必然性故の出口なしの情況を突破するのはパワーによる破壊しかないと考えてしまいがちなのではないか。しかし、突破など本当はいつもあり得ず、過去の研究の結果の漸進が歴史を動かしている。庶民だって本当はそうなのだ。

問題は、自分に対する認識のありようと同じ程度に困難な、過去に対する認識のありようなのである。安全保障でもなんでもそうなのだと思う。挑戦はいらない。必要なのは挑戦という研究である。

いとさかしらなる

2019-05-19 23:07:49 | 文学


「浅くも思ひきこえさせぬ心ざしに、また添ふべければ、世にたぐひあるまじき心地なむするを、この訪づれきこゆる人びとには、思し落とすべくやはある。 いとかう深き心ある人は、世にありがたかるべきわざなれば、うしろめたくのみこそ」

源氏は三〇代後半。夕顔の娘が好きでたまらない。このひとは、お母さんと藤壺の件以来、「おっ似ている」と「大好きだ」の区別がつかない。しかも、「昔の若い自分」と「中年になってしまった自分」の区別もつかない。「いとかう深き心ある人は、世にありがたかるべきわざなれば」、こういうせりふは、案外30代になると突然口から出てしまうことがあり、ますます勘違いを深める。

中年男性がなぜちょっとあれに見えてくるかといえば、自分を叱咤している言葉にいつの間にか酔い、気持ちが若返っているからなのである。二六歳ぐらいまでで獲得した慎み深さが消え去り、一八歳ぐらいに戻る。

とのたまふ。いとさかしらなる御親心なりかし。

語り手は、アイロニカルにそういうだけであるが、与謝野晶子は「と源氏は言った。変態的な理屈である」とまで言っている。

その前には兩眉の間の眉間のへんが妙にむづむづしてくるのが極りだつたが、何しろ自分の體がいきなり涯知らずくうつと延び出すやうな感じがし出す。涯知らなさはまるで自分の體が地の涯から涯へつながる電線にでもなつたやうな感じなのだ。そして、次の刹那にはそれがまた逆に極微少にちぢまる。まるで自分の體が針にでもなつたやうに、豆粒にでもなつたやうにちぢまるのだ。而もそのマキシマムになる錯覺とミニマムになる錯覺とが入れ代り立ち代り交錯する。初めはまた來たなと思つて我慢してゐるのだが、しまひにはとても恐ろしくなつて我慢にも我慢出來なくなる。

――南部修太郎「自分の變態心理的經驗」


正常でも人間はつねに錯覚を欠かさないし、上のような病気もある。いずれにせよ、知識みたいなものが症状をややこしくしている。現代ではより「さかしら」ではないことが難しくなってしまった。知識社会とか簡単に言って欲しくはなかった。知識を力の根源として持つことは、財産を持つこととは意味が違う。それは、もっと我々をむしばんでいくに違いない。

Tuning Up

2019-05-18 23:43:43 | 文学
NYO perform Edgar Varese: Tuning Up - BBC Proms 2012


三島由紀夫と全共闘の議論を読み直していたのだが、どうも全体的に議論が演劇的というか空間的な感じがした。わたくしは、もう少し音楽的なものが好きなので……。三島が最後に「言霊が空間の中を飛び回った」と言っている。わたくしは、そんな感覚は非常に居心地が悪い。全共闘Cものちに演劇家として活躍する人だが、もう発想が演劇的であると思った。彼が三島のいう行為の目的のなかに潜む歴史性を否定しているのも、チューニングアップみたいなものにあるていど神聖さを感じているような気がしてならないが、三島は三島でチューニングアップだけで長篇を何本も書いてしまうようなひとである。

それにしても、三島の古事記の説明は上手い。このひとの「物語空間」を現出させる能力はちょっと他の作家にはなかったもののように思われる。考えてみると、もう少しこういうことが下手であったなら、延々安部公房みたいに死ぬまでやれたのではないか。安部公房は空間的なものをつくるのが本質的には苦手であるので、実際に繭や箱を書いてしまうのであろう。

ときめきと片付け

2019-05-17 23:06:20 | 思想


わたくしは時々ベストセラーなるものを買いたくなるときがあり、このあいだも、近藤麻理恵の『人生がときめく片付けの魔法』を買ってしまったわけである。この調子で行くと、『日本国紀』なるものも買いそうな勢いである。――それはともかく、確かにものがありすぎてそれを捨て去る勇気が必要なのは多く人が思いいたっていたことであるが、我々はそもそも捨てることに罪悪感があるので、だれかが捨てていいんですよ、むしろ捨てることで人生が始まりますよ、と言ってくれることが重要だったのである。我々はそもそも多くものに配慮して生きていく頭を持っていない。そこそこのことしか大事に出来ないのである。

ただし、わたくしは心がときめくことがなくても捨ててはいけないものがあるような気がしてならない。

近藤氏が一番好きな本は『不思議の国のアリス』らしいが、これは非常に空間的に狭い話で、自分の聖域のお話だと思う。それを現実の家庭空間に移しているのがこの人の片付け方である。場面が切り替わると必要なものしかそこにあらわれないような空間――それがアリスの空間である。魔法がかかっているのかもしれないが、作者がきちんと片付けているわけである。しかしアリスはこのあと夢から覚めたはずなのである。で、アリスは退屈な勉強に戻っていったはずだ。

しかし、社会には捨ててはいけないものがある。ときめかないので保存しておく必要があると判断すべきものである。例えば、近藤氏の本では、書類は全捨てが基本とあったが、これはある種危ない発想だ。わたくしは、モノと文字が書かれているモノは一緒くたにできない。

近藤氏の本が、アメリカでウケたのは理由がありそれは、モノを自由意思で捨て去ることが、なんとなく個人主義みたいなものを保障してくれそうな感じがあったからではないか。モノは社会と繋がっているからである。

日本では、たぶん、買ったものは個人の所有であることが徹底的に理解されているとは限らない。どこかしら「もらい物」というニュアンスが残っている。社会との関係がもう少し変わらないと、近藤氏の言っていることは、自分を大切にせよ、ということのみが教条となるような――自己開発セミナーみたいな意味合いを過剰に持ってしまうかもしれない。そんな気がした。

今日、ゼミで安部公房の「他人の顔」のことを考えていて、三島由紀夫はやっぱりちょっと最後間違っていたんじゃないかなと思った。三島由紀夫の人間関係に対する哲学も、近藤氏が提唱する「思い切って捨てていきましょう」という宣言と無関係ではないのである。

2019-05-16 23:03:27 | 文学


最近は和歌や詩に対する関心が出てきていっこうに体に力が入らないわたくしである。今日は授業で、おぞましさとかわいさの関係について「透明人間」というコンセプトを題材に考えてみた。戦後の特撮映画からピンクレディー、東京事変などを扱う。そろそろファシズム論に入らなきゃならない。

で、研究室に帰って、安里健の『詩的唯物論神髄』の続きを読む。一見こういうスタイルは良くあるような気がするのであるが、すごく軽快なポップスをきいているような気分にさせる。氏の詩は必ず注釈がついているが、これは詩の一部で、注釈がついにポップスじみた軽快さにまで昇華している。音楽を絶対に拒否するようなものとして。音楽的ではないのだが、そこにはある種の韻律がある。

歌謡曲のパロディなどが得意な人も結構いるんだが、そのじつ、音楽に頼ってしまう人が多い。上の詩集の場合、詩のなかの注釈がそれを拒否する。

――思うに、デカダンスというのは非常に感染力のあるもので、中年とはそれとの闘いである。何かに頼るようになるとデカダンスに陥る。

社会科学的

2019-05-15 23:45:01 | 思想


渡辺一夫に『空しい祈禱』という本がある。昭和二四年の本で、本学の図書館にもあったので手に取ってみると、奥書の次の頁の余白に、当時これを読んだ大学生が感想を書いていた。

昔の人のなかには、本を買ったり読んだりしたときに、その場所や日付を書き込んだり感想を書いたりする人がいた。古本を買うと、そういうものに行き当たり非常に面白い。以前、西田幾多郎の『善の研究』にあまりの興奮の余り、これから弟子にしてもらいに京都に行くとか書いていた人もいたし(大正時代)、『佐野学著作集』の余白に、獄中の親戚に向けて独白している人もいて(戦時中)、その他いろいろと……。

笑ったのは、安倍能成の『岩波茂雄伝』の最後に、「岩波の売国目に余る」とか書いてあったもの。あと、改造文庫のなんとかいうマルクス主義の本に「天皇陛下万歳」と書いているもの……。

上の渡辺のものには、結構沢山書いてあって、「説教臭い」とか「サロンみたい」、「ヴァレリーとかなんとか言ってみてもつまらねえ」とか文句を言ったあげく、結局渡辺が文学者であることに問題があり、むしろ「社会科学的」な視点が必要だ、とかすごい剣幕であった。しかも、その左には、二年後の彼が再度書いており、「20の時の感想が右である」と始まり、なんだか長々と述べたあげくに「この書を手に取る後輩の諸君、われわれが日本人であることを忘れてはならぬ。」と書いてある。

いまとあんまり変わんねえなあ、と思う。確かに大学生の頃のわたくしも、渡辺のエッセイに「この隠れサヨクがっ」と思ったこともないではないが、べつに社会科学が足りてないからそう思ったのではない。社会科学が大切と思う人はまあ頑張ってくれたまへ。大学紛争の時、社会科学を振り回していた輩たちはいったいどこに行ったのだ。そろそろ総括してくれてもよいんでない?

で、教授会の後は、安里健『詩的唯物論神髄』を読みました。

林芙美子

2019-05-14 23:26:27 | 文学
文豪の肉声 林芙美子 『林芙美子を囲んで』(林芙美子が、女子学生の質問に答える場面)(昭和26年47歳の時、亡くなる4日前に録音)


いつか林芙美子について書いてみたいのであるが、まだまだいろいろ読んでいたい気分である。

病院図書館会議室研究室教室自宅

2019-05-13 23:22:36 | 大学


ただ移動しているだけの一日であった……。

デボーリンの『レーニンの唯物弁証法』読んでたら、ローザ・ルクセンブルクを批判しているところが出てきた。彼女が「闘争は侵略に対する最上の手段である」というのに、それは普遍的であっても「普遍と特殊の契機的な論理的な差異を見逃してはならぬ」と、レーニンは言っているという。

こうやって、何か現実的判断を妙な「契機」だとか言いながら行う人がいて、闘争を組織のあれに変えてしまうのであった。これはいまでも其処此処にある現象である。

随筆

2019-05-12 23:00:03 | 大学


最近、大学の授業で、「随筆」を書かせてみている。学術的なレポートのスタイルはどうも窮屈なので、特に若い学生に随筆を書かせてみるのである。日記みたいなものではなく、詩や小説の解釈を「随筆」として書かせるのである。

すると、頭の働き出す学生がいる。もっとも、全員ではなく、かちっとした学術的なものを要求した方がよい学生もいる。

教育はやろうと思ったらすごく時間がかかる。教育が、学生を社会に馴致させる側面と反社会的に自らを防衛する側面の両方を扱っているから、という根本的な問題があるからである。後者を重視して、主体性などを中心にプログラムしても、近代社会みたく前者を中心にプログラムしても、どっちもお互いは排除されずにくっついてくる。これをあまり簡潔にすることは出来そうにない。

考えてみると、学生の一部にとっては、随筆風の考え方の方が、内発的に「社会性」を帯びているのである。で、やってみたわけであった。

若々しかりけるいぎたなさ

2019-05-11 22:59:02 | 文学


「あやしきうたた寝をして、若々しかりけるいぎたなさを、さしもおどろかしたまはで」

源氏は、明石の君のところに行っておった。贈った衣装をみるために順に女たちを訪ねているのである。紫の上はおかんむり。で、上のせりふである。「新年会でうたた寝しちゃったの。若々しくぐーすかねてしまったのを誰も起こしてくれないんだもんなあ」

誰が起こすかっ

と、御けしきとりたまふもをかしく見ゆ。

まったくをかしくねえわい

ことなる御いらへもなければ、


そりゃまあそうだろう

わづらはしくて、そら寝をしつつ、日高く御殿籠もり起きたり。


そういえば、源氏は結構ショートスリーパーかもしれませんね……

ひしひしとただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、無期ののちに、「えい。」といらへたりければ、僧たち笑ふことかぎりなし。
(「稚児のそら寝」)


この稚児のかわいさに比べて源氏はもうお歳なのでかわいそうではあります。そら寝に対する扱いがまるで違います。現代の学校でも、すさまじいそら寝をしている学生がおります。なにしろ、本当に寝てしまっているのであります。 「若々しかりけるいぎたなさを、さしもおどろかしたまはで」。いまは、下手に起こすとアカハラになりそうでありますので、邪魔はしないのです。

代わりに、教員の方は、眠れなくなって、心身ともにおかしくなっていきます。

科学者の非科学

2019-05-10 23:20:20 | 大学


大学にいくと、だいたい世の中の問題が、弱者のいいわけによって成り立っているのが分かる気がしてくるが、錯覚かもしれない。

学者にとっては自分の専門分野も含めて訳が分からないジャングルみたいな世界が目の前に広がっているのだが、それでも、ほとんど闇にみえるものと輪郭は見えそうなものはある。文学なんかをやっていると、今日演習で扱った漱石の作品なんかは、少し輪郭は見えそうな感じなのだが、数学物理生物化学あたりの分野はほとんど忘れてしまったことで完全な闇である。高校まであった「現代文」とかなんとかいう括りがないようなもんであることを考えると、所謂その「理系」科目なんかもそんな感じであることは明らかなのだが、手がかりさえない闇なのでさっぱりである。

今日、生物の分野?の中屋敷均氏の『科学と非科学』を読んだ。結構面白かったが、大学の現状を憂いたあちこちの箇所については、正論ではあるが、――むしろ、氏の言う「牙を持たない大学人」の欠点が良くあらわれているような気がしないでもなかった。第一二話の「閉じられたこと」で語られている、「開かれたところ」ではない「閉じられたところ」でのカビの発生のような研究の大切さなど、――それはかなり以前から言われてきたことであって、かかる認識を持つだけでは、この現状を打開できないことこそが問題なのである。文学や哲学で延々議論されてきたこの話題を、科学的な事例を「比喩的」に使用して簡単に書いてしまうべきではないような気がする。我々はカビではないからだ。

「エピローグ」では、「偶然」の力を語る氏だが、「この世に生きる勇気を与えてくれるのは、人の心にあるそんな「物語の力」ではないのだろうか」と言ってしまうところがやはり気になる。

思うに、理系の学者にはこういうナイーブなところがあるような気がしないでもないが、それはわたくしの偏見だろう。(時々、理系のお偉方が、大学の広報みたいなところで、文学をやっている身からすると完全に盆×レベルの文学認識を披露しているのをあちこちで見かけるのでそんな偏見が生じてしまったのであろう。)大学の現状を含めた我々の凋落は、「この世に生きる勇気」といったせりふを「小学生かよ」と笑い飛ばすようなリテラシーが失われたことから来るように思われる。さっきの「牙を持たない大学人」なんかも、それは比喩だとわかっているが、――我々はもともと牙なんて持っていないのであって、それが、実際何が欠けてしまったのか(知っているけど)考えないための修辞になってしまっていることが問題なのである。なぜこういうことを思うかといえば、ポンチ絵つきのミッションのなんとかみたいな書類に書かれている表現の特徴がまさにそれだからだ。

「あとがき」をみると、「小説は、人に生きる勇気を与え、人生の意味を考えさせてくれる」とあった。小説に対してこんな考えでのぞんでいるのは、九九を間違えているレベルである。むろん氏の主張は、科学の発展には小説的な感性がむしろ必要なのだということなので、むしろ主張をつくるための修辞であるとみえなくはないのであるが、どうもそういうことを越えたナイーブさが感じられる。まだ氏の中ではそういうもの(物語や小説みたいなもの)は密かに働いている「非科学」の領域なのである。しかしそれは違うと思う。――たぶん、氏は本当は分かっている。ただ、通りが良さそうな言葉を書いてしまうことになれているだけだ。

無敵の思考――コスパ最強

2019-05-09 00:19:27 | 思想


ひろゆきという人の『無敵の思考 誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21』を手に入れたので読んでみた。

200頁以上もあるのに、2時間以内で確実に読めるコスパ最強の本であった。

ひろゆき氏は2ちゃんねるの成立に与った人として有名になったが、わたくしにとって、2ちゃんねるの登場は、ある種の集合意識の仕業に見えた。一人の仕業に思えなかったのである。で、この本も、ひろゆき氏の偏屈があらわれているというより、「けっこうこういう考え方の人いるよなぁ、おれも少しばかりはそうだし」という感じの本である。だから、わたくしは、この本に書かれている言説はそのものはほとんど信用しない、実際に考え方はどうあれまともかどうかはまた別問題なのである。

最初に書かれているところの――、物事に対処するため自分のルールを決めておいて、いまくいかなかったら修正するという考え方は、さしあたり使える。ただし、このような考え方がうまく機能するためには、ひろゆき氏のように行動の前に合理的思索が来るような内面的な人であることがたぶん必要である。氏は、みんなで「和」して決めたことをルールとするのが日本で、自分はそうじゃないみたいな書き方をしていたが、――むろん日本の現実においては、「和」してルールを決めてもいないし、思いつきで行動して考えを後付けしているうちに「おれ様ルールは合理的だ」みたいなタイプがむしろ多く、そういうタイプが氏に共感して却って考えるタイプを「うじうじしている」といじめているわけである。ひろゆき氏はたぶん、そんな風土を知ってて喋っているわけで、つまり氏の処世は、コスパがよかったのだ。おそらく、ある種の弱者の生存戦略だったのであろう。人を怒らせた方が有利、と氏は書いていたが、本当の強者はそんなことは考えない。ひろゆき氏のこの本は、広く存在する中途半端な頭脳の大衆にたいして極めて優しい態度で書かれているのである。

そういえば、氏は友だちや彼女と同居して生活することが多かったらしいが、氏からはなんとなくヒッピー的な雰囲気が感じられる。

氏の思索体質は、音楽をほとんど聴かないというところにもあらわれている。音楽は、相手がいないのに「いいねー」みたいな同調性に浸ることが求められるので、非常に奴隷的な行動にちかいのだ。氏は、その前に考えたいのだろう。

だいたいこの本は200頁ずっと自己分析をやっているわけで、普通自分に対して飽きるだろうと思うが、そうでもない人がいるのである。

というわけで、こういうタイプは非常に独善的になるか、他人に対しても有能になるか、みたいなところがあるが、ひろゆき氏がどうなのかは分からない。

外国に行って帰ってくると、「日本語通じるじゃん」ということで「余裕じゃん」という気分になれるらしいのであるが、たしかにそういう人はいる。わたくしが知っているそういう人は、外国に行く前でもクズ、帰ってきてもクズであった、が……。

思うに、かかる現象がありうるのは、所謂自己改革マシーンみたいな人間がたぶん、ファシストの理想型だからである。そこには思想も文化も相対的なものに過ぎず、ストレス要因なのだ。