★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

未来は語らず

2019-05-07 23:27:01 | 文学


二〇年ぶりぐらいに島田雅彦の『語らず、歌え』という随筆集を読んだ。驚くべきことに、ほとんどの文章に既視感があり――というか、頭に残っていて20代に読んだ本の影響力の大きさに驚いた。

当時この本を読んだときは、あまりそうは思わなかったが、――その後の島田氏の小説を読ん(あんまり読んでないが――)だ後では、この本からは、こんなではだめだ、という島田氏の声が聞こえてくるようだ。氏は左翼をサヨクと言い換えたとかいうことで有名になったが、むしろ、それは挫折した左翼運動の先の左翼運動を考えることに等しく、氏は大まじめだったのである。それを氏はもっと勉強しなければ、という態度で乗り切ろうとしているけれども、どうしてもそれが、――例えば三田誠広氏なんかに比べても、小市民的になってしまう感じなのである。

わたくしは、例えば、ブローデルの「ショックの意識」という絵を思い出す。

わたくしは、氏が要するに文章の態度として「いい男」だったことと関係ある気がする。とても目鼻立ちが整った文章で、文壇の先輩やわたくしのような10歳以上年下の読者に対しても配慮がきいている。かかる傾向に関して氏は、当時の空気の中でまったく孤立していなかった。

だから、この後、配慮なんかしなくてもいいのだという態度に多くの人々が移っていったのは周知の事実である。

昨日、人間宣言した天皇に対する佐藤春夫の「人間天皇の微笑」という詩を読んだ。宮本百合子はこれを「ふちの飾りしかない」と言っていた。しかし、そこには、もう天皇崩御の時に大塚英志が指摘したような――「可憐人(めぐしきひと)」、「稚児」としての天皇像がもう既に洗練されたかたちである。だから、いい気なもんだと思いながら、この調子の良さをどうやって批判するのか、われわれは回避してきたと思わざるを得ない。

考えてみると、今の時代は、明治維新の「四民平等」に匹敵する、年齢知的性格境遇権力ジェンダーその他によるあらゆる差別を殲滅しようとする「平等」革命の時代であり、そんなとき、すべての人間を平等にみなしてくれる権力が求められるのは、明治維新の時と同じである。トランプや安倍は多数決に勝ったにすぎないので、彼らのもとでの平等を求めるのは半数がいいところだ。しかし天皇の場合は、君主制復活としては右も、平和主義の権化としては左も納得の権力なのである。我々は、まだ論敵を過去からの延長としての既得権益とみなす見方に慣れているので、こういう時代の流れに気づくのが遅かったように思う。

当時の島田氏にも読者の我々にも欠けていたのは、当時が過去の衰退期ではなく未来への「過渡期」だという意識であったようだ。むろん、天皇制が消滅してからがすべての出発だ。

天命と英雄

2019-05-05 23:37:18 | 映画


終戦直後に書かれた、小山弘健の資本主義論争の本を読んでいたら、冒頭あたりに、共産党関係者が獄中にあらずとも「非命に仆れ」たとでてきたので、やはりこのあたりでは、死をそんな意識で捉えていたひとがかなり多かったのかもしれないと思った。

我々には天命があるのではなかろうか。

映画の「アイアムアヒーロー」は原作とはかなり異なった物語である。われわれはつい見落としがちであるが、――この映画を撮っている監督である佐藤信介氏は「ガンツ」とか「図書館戦争」の監督であって、名前よりも作品がメジャーな人である。「アイアムアーヒーロー」は日本では珍しいハリウッドみたいなゾンビ映画であり、カーアクションもハリウッドや韓国映画を思わせる(よく知らんけど)。作者の死を地でいくと、こういうことになりかねない(知らんけど)

主役は、大泉洋とか有村架純とか長澤まさみとかである。大泉洋はかなりのイケメンであるとわたくしはおもうのであるが、美女二人を守るために、怖じ気づく性格(売れないマンガ家←彼らに失礼な設定だと思う)を乗り越えて、襲いかかるゾンビを皆殺しにする、という映画である。有村架純は、ゾンビに噛まれているので、半分ゾンビになりかけているが、それでも可愛いということで大泉洋が銃刀法を破ってぶっ放し続けるのである。

わたくしは、原作を裏切って、半分ゾンビになった有村架純がゾンビとして覚醒し、大泉洋を助けて大暴れするのかと思っていたが、まったくそんなことはなく、有村架純は最後までへなっとしている。本当は、ただへなっとしている人は唯のお荷物なので、介護要員として登場するのが長澤まさみである。長澤まさみは、この映画を訴えていいと思う。

大泉洋は、最後に、自分の名前「鈴木英雄」――を長澤まさみに伝える。で、画面一杯に「IAMAHERO」とでて終わり。

大量殺人をやらかしてまで自分のアイデンティティを確認しなければならないのはきつすぎる。

最近、映画の世界を征服しつつあるアメリカンコミックスの最初あたりの「アイアンマン」では、主人公が記者会見で「私がアイアンマンだ」と告白して終わっていたが、これは自分の正体がばれてもアイアンマンであり続けようとする、資本家の社会的責任みたいな話であって、むしろ彼にはこれからゾンビみたいな大衆との闘いが待っているのであった。一連のアメリカンコミックスの映画は、このあと、ヒーローたちが乱立する偏執狂的な「社会映画」に向かっている。美少女を助けて殺人をおこなってまで自分を確認する、そんな地点で戦っている「アイアムアヒーロー」とは大きく違う。原作でもそうだったが、主人公はちょっと気を抜くとゾンビたちの群れに同化してしまいそうになる。

なぜ、自分が自分であることを自明の理として乗り越えられないのか。天はどこにもないから、天命は却って無根拠なアイデンティティを作り上げるのに観念として向いていたのかもしれない。

最悪なのは、ミッションとか言っている連中である。

天皇・歌・美少女

2019-05-04 23:55:16 | 文学


夕顔の忘れ形見、玉鬘が九州から地元の有力者の求婚を逃れて京にやってきた。るんるんの源氏である。

おのづからさるまじきをもあまた見しなかに、あはれとひたぶるにらうたきかたは、またたぐひなくなむ思ひ出でらるる。

紫の上の目の前でこの話をする光源氏は完全にいかれておるであろう

世にあらましかば、 北の町にものする人の列には、などか見ざらまし。

なんやて

人のありさま、とりどりになむありける。

多様性きたっ

かどかどしう、をかしき筋などはおくれたりしかども、あてはかにらうたくもありしかな」

才はなくても可愛いからいいとは何事か。このエロ親父がっ

この前、源氏物語の実写映画『千年の恋』を改めてみてみた。思うにこの映画、――挿入される松田聖子の歌唱が全てを破壊する変態的カルト映画とみられているが、そんなことはなく、結構面白い映画である。文学愛好者というのは、何か文学の世界を恐ろしくセンスの高いものと錯覚していい気持ちになっているのであり、それは一概に非難されるべきではないが、――源氏物語みたいな俗っぽい話の場合、源氏が酷くゲスな男である側面を持ち、女たちも、をかし、らうたしとかいくら言われていても、みんなそこそこの美女であるに過ぎないことを、一応思い出す必要があるのだ。『あさきゆめみし』は、その意味で、源氏物語を文学として美化して捉えようとする感性に合っていた。対して、映画の『千年の恋』は、主役の源氏は美形だがきどったいやな感じだし、紫の上(常盤貴子)は、まあこの役に合っていないせいかそこそこであり、明石の君も……、要するに、源氏物語もありふれた人間のお話であることを思い出させる。

だいたい松田聖子の歌だって、確かにおかしいと言えばおかしいのであるが、男女が喜怒哀楽のいちいちに歌をくっつけるセンスというのも、この松田聖子の恥ずかしい感じと似ていないと誰が断言できる。文芸が、どこか羞恥心のたがが外れた異様さに進むことがあることを我々は忘れるべきではないのであった。

わたくしは小野十三郎の短歌的なものの否定は、歌謡曲の否定まで延長されるべきだと考えているわけである。令和改元騒ぎの時に、天皇の歴史みたいな番組とともに、「紅白歌合戦」の特番が組まれていたが、天皇が紅白歌合戦みたいなものでもある証拠である。で、更に進んで、歌を真剣に詠んで女と駆け引きするのではなく、この時期の源氏みたいに――美少女を育てたり自分の家に美少女たちを囲んだりするようになると、かわいいとだけ言ってればよくなる。つまり収集家化=オタク化である。これも天皇という閾の一部である。

かくして、源氏物語の読者たちは、その閾のなかで源氏物語そのものを自らが生み出しうると錯覚していくのであった。

まろも、さこそはあらめ――素朴ということ

2019-05-03 23:40:43 | 文学


夕霧と雲居雁はまだ中学生ぐらいである。

かたみにもの恥づかしく胸つぶれて、物も言はで泣きたまふ。

めーめー泣いてんじゃないよ、歌でも詠みなさいよ……

「大臣の御心のいとつらければ、さはれ、思ひやみなむと思へど、恋しうおはせむこそわりなかるべけれ。などて、すこし隙ありぬべかりつる日ごろ、よそに隔てつらむ」

知るかっ

とのたまふさまも、いと若うあはれげなれば、

若いからといってあはれですませられますかいなっ

「まろも、さこそはあらめ」

me too

「恋しとは思しなむや」

えっ、今更こんな直裁に聞きますか?

とのたまへば、すこしうなづきたまふさまも、幼げなり。

かわいい

とはいえ、わたくしはこの場面、『あさきゆめみし』で読んだときにちょいと泣いてしまったことをここに白状します。

僕の好きな素朴ということは結局「中身のつまっている」感じであることになる。この「中身のつまっている」感じというのをもう少し説明すると、それは僕のひとり合点では、中身のつまりかたが実にがつちりしていて、そのためにあえて包装を必要としないというようなのが一番にいいのだ。

――中野重治「素朴ということ」


中野重治は、なんだか書いているうちにへんな感じになって行くひとで、上の説明なんか逆に良くわからなくなってしまいそうなところであって、にもかかわらず、彼の場合ごまかしにかかったなという感じがしないのが、さすがである。

それはそうと、わたくしは喘息その他で幼少期あまりケモノのような男の子たちと遊ばないところの箱入り息子だったせいか、いまも男の友人はあまりいない。しっかりした女の子と遊んで暮らせればそれで十分だという欲望があるようだ。上の夕霧はたぶん親たちが余りに強大な権力を持つために、そこから逃げているというのもあるであろう。最近の世の中の空気も十分高圧的であるから、我々は箱庭でも作ってままごとをしたがる。デカダンスである。

今日は、深澤民司氏のセルクル・プルードン論などを読んでファシズムの生成について調べていたが、どうもまだ実感が湧かない。深澤氏もフランスのファシズムの成立にデカダンスのモメントを重要視していた。

大和魂の世に用ゐらるる方も強う

2019-05-02 23:54:21 | 文学


源氏は、息子の夕霧を大学に入れることにした。

高き家の子として、官位爵位心にかなひ、世の中盛りにおごりならひぬれば、学問などに身を苦しめむことは、いと遠くなむおぼゆべかめる。

庶民の心がわからなくなるなどという意見よりまし。確かに、甘やかされている人間というのは、庶民の心はわかるが、学問の苦しさなどがわからなくなるのである。

戯れ遊びを好みて、心のままなる官爵に昇りぬれば、時に従ふ世人の、下には鼻まじろきをしつつ、追従し、けしきとりつつ従ふほどは、おのづから人とおぼえて、やむごとなきやうなれど、時移り、さるべき人に立ちおくれて、世衰ふる末には、人に軽めあなづらるるに、 取るところなきことになむはべる。

「鼻まじろき」という言葉がいいね。しかしまあ、追従する方も追従する方であるが……。

なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。

ここは、いつも問題になるところで、――才が漢学のような学問の才で、大和魂が常識的な思慮深さみたいなものと、注釈や辞書には書いてある。後者は、国学においてもっと日本固有の何かみたいなものになり、観念的でない実利的な能力を言っていた平安朝のものとは様変わりしてしまった、という風に書けばテストでは点がもらえるのかもしれない。源氏がここで本当は何を言いたいのかといえば、ちゃんと勉強させとかにゃ心配だわい、ということなので、才とか大和魂とか本気で言っているのか怪しいとは思う。(「戯れ遊び」を否定しているところもお前が言うなというものであって、本気だとは思えない。)我々が、この授業はコミュニケーション能力を鍛えておりますとかクソじみた嘘を言っているのと同じである。とはいえ、源氏のロジックは案外と本質を突いており、今で言うところの「勉強できなくても良い人です」あるいは「勉強できなくて実利的能力はあります」みたいな言説そのものが大和魂の本性だと思うのだ。勉強が外からの文物の翻訳である我が国の宿命であるかもしれないが、――わたくしのように国文学をやっているとあんまり関係ない。わたくしにあるのは大和魂ではなく、むしろナショナリズムであるといってよいであろう。

大和魂が負けるはずはない。はじめから負けているものは更に負けることはできない。

そりゃそうだ、はじめから我が国の才が、圧倒的な漢学=才には負けているという前提で成立する修辞的なものだからである。わたくしが以前から主張しておるように、負ければ負けるほど我々の自己愛は激しくなる。

そういえば、今度の天皇夫妻は、経歴から言って、所謂「グローバル人材」である。わたくしは、このようなグローバルな人が突然えせ国学者みたいな態度を取り始めるのを沢山観てきたが、そうならないことを祈る。そうなれば、もし天皇制の消滅の危機がやってきたときに、人が傷つかなくて済む。

和歌の出現

2019-05-01 23:09:42 | 文学


「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」
とのたまふ。 御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
「こは、など、かくは」
とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。 今も、いみじく濡らし添へたまふ。
女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。


藤壺の宮は源氏の夢にでた。「バレてしまったので、苦しんでいます」と言う宮に答えようと思ったが、何かに襲いかかられる気さえするのであった。だいたい、源氏に何を言うことが出来ようか。紫の上に起こされて驚く源氏であるが、涙が出てきてしまうのであった。彼女が不審に思うとイケナイので身を固くする源氏であり、そうすると、心の方が動き出す。

「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜にむすぼほれつる夢の短さ」

あんがい普通の歌であるが、なんとなく鬱病っぽい症状の中で一応、この歌の平凡さが源氏を救っているのかもしれん。このあと、あちこちの寺に御誦経などさせてしまい、それでも表だっては藤壺のために大きな供養をするわけにもいかず、――そうするとまた心が動き、阿弥陀仏をとなえたあげく、

「亡き人を慕ふ心にまかせても影見ぬ三つの瀬にや惑はむ」


と詠んでみせる。

わたくしはぼんやりと、横光利一が言っていた「形式によって価値を決定させる」ところの形式主義とは、結局、和歌みたいなものになってしまうんじゃないかなと思った。我々は、和歌を詠む人間に対してはあんまり批判ができないのだ。横光もそうだが、苦しい言論空間でこそ、そういう形式による突破が図られるような気がする。近年の「ポエム」もそういうものであったのかもしれない。