佐伯啓思氏の『自由と民主主義をもうやめる』は最初と最後しか読んでいないが、最後に第五章として「日本を愛して生きるということ」があり、日本浪曼派や西田哲学が紹介されている。この本は極めて「啓蒙的」な本なのでしょうがないのかもしれないが、こんな平べったいの日本の再評価なら、戦前のかなり本気の皇国哲学の方がまだパッションだけはあると言わざるをえない。いや、この人たちのパッションはちょっとあれな感じが入っているので、――せめて保田與重郎のような、文学に淫するがごとき調子が必要な気がするのである。問題は、氏の思想のなかに文化に欠かせない「淫」的なものが欠落していることである。
それに『自由と民主主義』を『もうやめる』はまずいのではないかと思うのだ。自由と民主主義を観念だとすればそうであろうが、そんなことはない訳で、それは佐伯氏が必死に見出そうという一筋の細い我々の文化が、無意識みたいな水脈ではなく、ある程度観念だということ同じである。「文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性を十分に尊重し、その活動内容に不当に干渉することのないようにすること」(「文化芸術基本法」)。やめるべきなのはこういう干渉で、こういう法の支配を「もうやめた」と言って貰っては困る。もうわれわれの生き方の問題まで、自由と民主主義とやらは食い込んでいるんではなかろうか。
わたくしに直ちに新たな『平家物語』を作る能力があれば良いのだが、せめて――という訳で研究と神社仏閣のフィールドワークに勤しんでいるのであるが、そのなかからなんとか自分の姿の輪郭が少しあらわれてくる(に違いない)のである。とりあえず、日常の怠惰をやめて一歩を踏み出すしかない。現場や実務から認識が自然発生すると思っているバカは、怠惰であっても「自由と民主主義」や「文化」が生じると思っている唯物論者というか観念論者である。問題は、実践(創作や研究)をしているかどうかである――と思うよ。ちなみにわたくしが日常にやっている授業なんかは、そのなかでなにかがないわけではないだろうけれども、日常の怠惰の一部に過ぎず、労働である。考えてみると、なぜそこには「もうやめる」という選択肢がないから。――実践的ではないのであった。
だから『自由と民主主義と、もうやめる』ぐらいの題名の方が、なんだか虚無に直面した実践的な感じがしてよかったのではなかろうか。これこそが、佐伯氏が西田からうけとった――人生の意味さえも全てが「無」によって支えられているあり方ではないか。
なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。
――梶井基次郎「蒼穹」
そういえば、わたくしはなぜ梶井がこんなときに「大きな不幸を感じた」のか全く考えていなかった。迂闊であった。梶井がもう少し生きていたら、谷崎のようなエロティズムを身につけ、芥川龍之介なんか目じゃない作家になったのかもしれないのに。