映画『ラストエンペラー』は1987年の作品で、わたくしは高校生ぐらいだったと思うが、その当時は見ていない。大学の時に確かテレビでみて、こりゃちゃんと勉強しなきゃと思ったことを覚えている。ベルトリッチの作品はそれから大概みたと思う。『革命前夜』はよくわからんかったが、気分は分かる気がした。『1900年』がやっぱりいちばんすごい気がする。
あ、『ラストタンゴ・イン・パリ』も彼の作品じゃないか。忘れてたわ……。
『魅せられて』を見たときには、だから?と思ったが、そう思った人は多かったらしい。
――そう振り返ってみると、この人は、だから?みたいな題材を扱っていることも確かなのだ。しかし、これは重要なことなのである。これを外れると、結局一番すごいのは、ダースベイダーやゾンビだということになりかねない。
坂本龍一が、かつて、コンサートツアーのビデオで、ベルトリッチは非常にともに仕事をやるにはやっかいな相手で、「感情をこめて作曲せよ、もっともっと」といわれた、19世紀の芸術家みたいだったと……言っていた。坂本龍一の音楽がもともとかなり叙情的だとはいっても、『ラストエンペラー』に、「千のナイフ」みたいな感じはそぐわないだろう。やってもある意味面白いかもしれないが、やってはいけないということはあるのである。
われわれの世界が、ニヒリズムの笑いから離れ、芸術に回帰するためには、そういう「やってはいけないこと」を思い出すと言うことはあるかもしれない。
いけないか。一つ一つ入念にしらべてみたか。いや、いちいちその研究発表を、いま、ここで、せずともよい。いずれ、大論文にちがいない。そうして、やっぱり、言葉でなければいけないか。音ではだめか。アクセントでは、だめか。色彩では、だめか。みんな、だめか。言葉にたよる他、全体認識の確証を示すことができないのか。言葉より他になかったとしたなら、この全体主義哲学は、その認識論に於いて、たいへん苦労をしなければなるまい。
――太宰治「多頭蛇哲学」