★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

いけないか

2019-08-19 23:23:00 | 映画


映画『ラストエンペラー』は1987年の作品で、わたくしは高校生ぐらいだったと思うが、その当時は見ていない。大学の時に確かテレビでみて、こりゃちゃんと勉強しなきゃと思ったことを覚えている。ベルトリッチの作品はそれから大概みたと思う。『革命前夜』はよくわからんかったが、気分は分かる気がした。『1900年』がやっぱりいちばんすごい気がする。

あ、『ラストタンゴ・イン・パリ』も彼の作品じゃないか。忘れてたわ……。

『魅せられて』を見たときには、だから?と思ったが、そう思った人は多かったらしい。

――そう振り返ってみると、この人は、だから?みたいな題材を扱っていることも確かなのだ。しかし、これは重要なことなのである。これを外れると、結局一番すごいのは、ダースベイダーやゾンビだということになりかねない。

坂本龍一が、かつて、コンサートツアーのビデオで、ベルトリッチは非常にともに仕事をやるにはやっかいな相手で、「感情をこめて作曲せよ、もっともっと」といわれた、19世紀の芸術家みたいだったと……言っていた。坂本龍一の音楽がもともとかなり叙情的だとはいっても、『ラストエンペラー』に、「千のナイフ」みたいな感じはそぐわないだろう。やってもある意味面白いかもしれないが、やってはいけないということはあるのである。

われわれの世界が、ニヒリズムの笑いから離れ、芸術に回帰するためには、そういう「やってはいけないこと」を思い出すと言うことはあるかもしれない。

いけないか。一つ一つ入念にしらべてみたか。いや、いちいちその研究発表を、いま、ここで、せずともよい。いずれ、大論文にちがいない。そうして、やっぱり、言葉でなければいけないか。音ではだめか。アクセントでは、だめか。色彩では、だめか。みんな、だめか。言葉にたよる他、全体認識の確証を示すことができないのか。言葉より他になかったとしたなら、この全体主義哲学は、その認識論に於いて、たいへん苦労をしなければなるまい。

――太宰治「多頭蛇哲学」

「もののけの入り来たる」問題

2019-08-19 01:30:14 | 文学


笛竹に吹き寄る風のことならば末の世長きねに伝へなむ
思ふ方異にはべりき


死んでも「伝えよう」「あ違った」みたいな感じで独特な柏木さんである。夕霧の夢にでたのである。わたくしも非常によく夢を見て、しかもかなり覚えているのであるが、だいたい周りの音が変換して夢になっているようである。夢の経験というのは、覚めているときよりも、我々が意識に閉じ込められていることを自覚させるものである。――それはともかく、このあと、自分の子どもの声で夕霧は起きてしまうので、柏木の横笛の夢は子どもの声の変換されたものではなかろうか……。このあとの描写がよくて

この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。 いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめたまふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、 白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。

雲居雁がすっかりお母さんになっている。このあと、子どもがむずがるのを、

悩ましげにこそ見ゆれ。 今めかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり


と、夕霧の二の宮(柏木の妻)への浮気に対する嫌みを放つ。夢で柏木がでてきたのと「もののけの入り来たる」こととの類似、それらが子どものむずかりを引き起こしたとでも言いたげな母としての妻――。ここまで読んできた読者は、もはやさまざまなものの脳裏に殺到するのをみるであろう。

自分の感情に自分で作用される奴は
なんとまあ 伽藍なんだ
欲しくても
取つてはならぬ気もあります
[…]
無縁の衆生も時間には運ばれる
音楽にでも泣きつき給へ
音楽は空間の世界だけのものだと僕は信じます
恋はその実音楽なんです
けれども時間を着けた音楽でした
これでも意志を叫ぶ奴がありますか!
だつて君そこに浮気があります
浮気は悲しい音楽をヒヨツと
忘れさせること度々です


――中原中也「不可入性」


中原中也の詩は難しいが、「音楽にでも泣きつく」というところは面白いと思う。わたくしは、いまでも長大な浪漫派の交響曲などが好きだが、これはなんとなく「泣きつく」という感覚に近い。源氏物語に欠けているのは、絶対に解決しなければならない犯罪への対処とか、他国との折衝などの問題である。(もっとキチンと読めば書いているのかもしれないが、今のところあんまりそういうものはない気がする)泣きつくのが不可能な問題を抱えないことで、男たちはあっちこっちで遊び回ったり出来るのではなかろうか。こういう諸行無常みたいな生き方をしていれば、世の中が変われば、それが自分たちの為したことだと思わずに、一気に外のせいにしたりするのではないか。源氏によく出てくる「もののけ」で済みゃいいが、現代ではそうとはいえない。

「亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか」https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07251101/


こんな記事を見ながら、そんなことを思った次第である。