「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花の折々に、心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむ折は、仏にもたてまつりたまへ」
と聞こえたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば、立ちておはしぬ。
匂宮がかわいくてしょうがない紫の上である。優しく言ってるが、住所指定、愛でるお花も指定、お花の扱い方も指定、自分が死んだ後ちゃんとしなさい、みたいな命令である。わたくしだったら、「強制するな」とか言うておばあさまを困らせたであろうが、匂宮はそういうひん曲がった根性ではなかったのでしおらしい。源氏物語は、源氏が生まれた地点がスタートであるから、彼が生まれる前にどんな心理が存在していたのかは十分に描かれない。源氏が死ぬまでの長大な物語で、もう読者はこれ以上の心理劇を考えられなくなっている。薫や匂宮が源氏にくらべて小物なのは物語上しょうがないのである。本当は、源氏も薫たちと同じく、親たちに比べて小物だったのかもしれないのだ。
わたくしは一瞬、源氏物語が平安朝を終わらせたのではないかとも妄想した。光源氏を打ち倒すには、もう物語の世界そのものをひっくりかえし破壊するしかないからだ。
それはともかく、紫の上や源氏が人生の終わりを意識して直ぐさま出家を考えることについて、――学問的にはたくさん説明があるのだろうが、気分は分かる気もするのである。「あさきゆめみし」で、源氏が出家前に、いままでつきあってきた女人たちを延々思い出す場面があり、空いっぱいに彼女たちの面影が浮かび上がる場面があるが、これは美しいというよりほとんどホラー的なのであり、源氏にとって紫の上が死んでさすがにいままでやってきたことの重みで身がつぶれそうなのである。歳をとってくると、自分の生よりも人生が重くなってしまう。
夢は必ずしも夜中臥床の上にのみ見舞に来るものにあらず、青天にも白日にも来り、大道の真中にても来り、衣冠束帯の折だに容赦なく闥を排して闖入し来る、機微の際忽然として吾人を愧死せしめて、其来る所固より知り得べからず、其去る所亦尋ね難し、而も人生の真相は半ば此夢中にあつて隠約たるものなり、此自己の真相を発揮するは即ち名誉を得るの捷径にして、此捷径に従ふは卑怯なる人類にとりて無上の難関なり、願はくば人豈自ら知らざらんや抔いふものをして、誠実に其心の歴史を書かしめん、彼必ず自ら知らざるに驚かん
――漱石「人生」
光源氏がこういうことを言わないのは、彼が国家公務員みたいな人だったことと関係があるであろう。彼にはいろいろ見えすぎていなければならなかったからである。