老を忘るる菊に、衰へゆく藤袴、ものげなきわれもかうなどは、いとすさまじき霜枯れのころほひまで思し捨てずなど、わざとめきて、香にめづる思ひをなむ、立てて好ましうおはしける。
薫への対抗心からか、匂いオタクになってしまった匂宮である。
かかるほどに、すこしなよびやはらぎて、好いたる方に引かれたまへりと、世の人は思ひきこえたり。 昔の源氏は、すべて、かく立ててそのことと、やう変り、しみたまへる方ぞなかりしかし。
うまくいかないものである。源氏はこんなに一つのことに執着するようではなかった、というが、源氏の血が流れているのは匂宮の方なのだ。薫は……(以下略)。紫の上が子どもを産んでいたら、容姿知性全てが世の中を超越したものすごい人物が生まれてしまったのかもしれないが、そういうことにはならなかった。生まれていたとしても、とんでもないどら息子や不良娘かもしれない。しかしそうであっても彼等が不幸になるとは限らず、たいして、華麗な生涯に騙されなければ、源氏はどうみても悲しい晩年だった可能性が高いように思われる。――この程度のことは、中学生でも読めば想像されるのが文学のいいところである。
現実は、かえって想像や内省を禁じる圧力に満ちている。
今日はじめて、『月刊*****』というのを読んでみた。『**ll』の内部分裂で飛びだした編集長がやっている雑誌ということは知っていたが、果たして、このあたりの雑誌の読者というのは本当に実在しているのか半信半疑であった。あるとき、これをちゃんと毎号読んでいると言っておられる人がいて「実在が確認された」。戦前の新聞や雑誌をみていると、見出しや煽り文句が過激でも、本文はそれほどでもないものがあるが、今回読んでみたら、これもそういう側面がある。10月は「韓国という病」であるが、どんな重病かと思いきや大した病の説明はない。左翼らしい左翼もほとんど消滅しているいま、リベラル側も一種の標語主義みたいになっているが、この雑誌もそうである。これは「意味という病」の単純な上映で、こういう場合、論理的に語ろうとしているところがある種の間違いのもとなのである(彼等の決まり文句の一つである「論破」に注意)。大切なのは内省なのだ。
反省は論理的なニュアンスがともなうので「内省」といった方がよいような気がする。彼等の好きな「反」というやつであるが(「反日」「反社会」「反自民」)、この「反」というのは、現代文の読解で、中学生の頃習う二項対立みたいなことであり、高校以降はあまり通用しない技法である。だから、紙面の作りが案外バランスを重視することにもなっている。面白かったのは、山本太郎を扱っている部分で、これに関しては案外「内省」みたいな分析になっている。山本はポピュリスティックではあるがある種の脅威なのだ。だから真面目にならざるをえない。それ以外は、全体的に、ものすごくやる気のある論者は少数という感じである。もっとすごい憂国の士はいねえのかよ、と若い読者は思うんじゃなかろうか。人工的なものはもう真っ平なのだ。
もっとも、これは、印象だけで言えば、『文藝春秋』や『中央公論』なんかの昔からの特徴でもあって、――こういったジャーナリスティックな「原稿いっちょうあがり」みたいな雰囲気を漂わせている記事が、我々の「世論」だか「与論」だかを作ってしまっているのは深刻である。博文館の『太陽』の時代から、総合雑誌というものはそんなもんなのであるが。
わたくしは、上の世代があまり褒めるのでいやだったが、――司馬遼太郎という人、この人が重宝がられたのは、この土壌があったからである。わたくしはもっと古典の世界で遊んでいたい。