ハイデガーの「放下」(Gelassenheit)はしばしば話題になるのだが、上のような感じが似合う。『ハイデガーフォラーム13』で國分功一郎氏が例の「中動態」にからめて書いていたのを読んだので、上の写真を思い出したのである。
考えてみると、我々が能動的である場合は非常に何か(目標とか、脅迫とか)に受動的な場合であるし、受動的である場合には、単に受動的である。こいつは文法的には反対かもしれないが、実際はそうではない。本当に心から能動的な場合を想像してみると、犬とか赤ん坊とかが想像できるが、かれらが本当にそうであるかは分からない。
わづかに歩みなどしたまふほどなり。この筍の櫑子に、何とも知らず立ち寄りて、いとあわたたしう取り散らして、食ひかなぐりなどしたまへば、
「あな、らうがはしや。いと 不便なり。かれ取り隠せ。食ひ物に目とどめたまふと、もの言ひさがなき女房もこそ言ひなせ」
とて、笑ひたまふ。
薫が誕生しよちよち歩きをしはじめると、タケノコに突撃して食い散らかす。
確かに、自分が非常に能動的であるという意識がありながら、何もしない場合があり、――我々はそれに近い。ほぼ修行みたいなかんじである。わたくしは、昔ピアノの練習をしているときに、「意志を強く持て」みたいな観念の発生を意識したことがある。むろん、うまく弾けない状態が長く続いたときである。
ハイデガーが「放下」ということばを出してくる対話篇のなかで、教師と科学者と学者は、人里離れたところまで歩いてきてしまっているのであるが、――いったいどうして三人でそんなところまで来ているのであろう。いま國分氏が引用している箇所だけしか見ていないので、分からんが、非常に暇そうである。しかしわたくしの経験が能動的に語るところによれば、暇であるというのは、何かに行き詰まっている場合である可能性が高いと思う。だいたい散歩といったって――、ルソーやカントならたぶん習慣によって、ベートーヴェンなら、口をついて溢れ出るメロディーに乗ってどんどんウィーンの小道を進んでしまうのであって、意味が違う。だいたいやることあるときに、対話とかをしている暇があるかという話だ。
御歯の生ひ出づるに食ひ当てむとて、筍をつと握り待ちて、雫もよよと食ひ濡らしたまへば、
「いとねぢけたる色好みかな」とて、
「憂き節も忘れずながら呉竹のこは捨て難きものにぞありける」
だいたい赤ん坊の食いっぷりなどこんなもんであるが、「変態色好みだな」とか「まあ棄てがたいとは言えるよね」とか非常に暴力的な源氏である。
放下とか言わずとも、我々は勝手にこんなに能動的になれるのである。いうまでもなく、源氏の無力感と怨恨が彼を導いているので受動的といえるかもしれないわけであるが、――そんなことは本当はどうでもいい。
薫にとっては、「棄てるわけにはいかんか」とか思われていることに受動的であらざるをえない。源氏は能動的であり薫は受動的である。――とはいっても、薫も結構良い思いをこれからするであろうからどうでもいいかも。
ここで一番かわいそうなのはひたすら食べられるタケノコである。