★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

DENIAL

2019-08-03 23:57:12 | 映画


猛暑のなか、志垣民郎(志垣氏とは例の『学者先生戦前戦後言質集』を編んだ人である)の『内閣調査室秘録』をぱらぱらめくっていたらふらふらしてきたので、『否定と肯定』を観た。原題は、『DENIAL Holocaust History on Trial』なので、邦題のような相対的なものではない。ホロコーストがあったことを「否定」する論者に対しては、事実の「肯定」という立場にたってはならない――相対的土壌に立ってはならないということが、この映画で主張されている重要なポイントである。だから、邦題はよくなかった。

しかし、現実問題、言論の自由がある社会のなかでは、そういう土壌に立たされることがある。裁判がそうであった。ホロコーストはなかった、とする「歴史学者」を罵倒した学者が、相手から名誉毀損で訴えられるのである。訴えられた学者ははじめ、激怒の余り、訴えた人間と法廷で直接対決しようと試みる。ホロコーストを体験した人間の証言を含めて、事実を強力に「肯定」することで、「否定」論者を打ち負かそうというのだ。

ところが、弁護団は、そういう彼女のやり方を厳しく退ける。弁護団のやったことは、ホロコーストを「否定」する人間が如何に差別主義者で事実を意図的にねじ曲げたか「証明」することであった。被告はユダヤ人で原告が嫌う女性である。故に、不幸なことに、法廷が、異なった立場のプロパガンダの応酬に見えてしまう危険性があった。ひたすら相手の主張を証拠に基づいて厳密に崩す作戦に出たのである。

被告の学者は、はじめそういった作戦に不満を持つが、結果的にそれは吉と出た。しかし、すぐにそうなったのではない。最後に裁判長からの質問が彼等を危機に陥れる。「彼が差別主義者だとして、自らの主張を本気で信じているとしたら、事実を曲解するという「嘘」はついていないことになるのではないか」、というのである。

この発言から、最後の判決にいたるまでの過程は映画ではほとんど描かれなかった。これは意図的である。つまり、差別主義者の主観の純情さより、事実を曲解する方を無条件で悪とみなすという結論が前提なのである。――というか、前提にすべきことを主張しているのである。

日本の映画だったら、ここで裁判官の苦悩やネットや電話による脅迫による場面が挿入され、裁判官が迷う場面があるかもしれない。そんな弱さの存在を認めないのがこの映画である。Herde になったらおしまいなのだ。

印象的だったのは、ホロコーストの存在を否定している人物が、弁護士さえつけずに一人で法廷にでてきたのに対し、被告側は被告自身には語らせず、大人数のチームを組んでたたかったことである。日本では、一人でやってやるという人と、翼賛的協動しかできない烏合の衆(政治家含む)が結託して、被告側が本当の孤独を味あわされているという情況である。

岩に囁く
頬をあからめつつ
おれは強いのだよ
岩は答えなかった


――太宰治「ロマネスク」