★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大きさ

2022-06-13 22:47:52 | 思想


人天大会けをさめて・ありし程に爾の時に東方・宝浄世界の多宝如来・高さ五百由旬・広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて・とのべ・かうのべさまざまに宣べさせ給いしかども不審猶をはるべしとも・みへず・もてあつかいて・をはせし時・仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給う、例せば暗夜に満月の東山より出づるがごとし七宝の塔・大虚にかからせ給いて大地にも・つかず大虚にも付かせ給はず・天中に懸りて宝塔の中より梵音声を出して証明して云く「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎めて云く、善哉善哉・釈迦牟尼世尊・能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て大衆の為に説きたもう、是くの如し是くの如し、釈迦牟尼世尊の所説の如きは皆是れ真実なり」等云云

1由旬が8㎞ぐらいだとすると、「多宝如来・高さ五百由旬・広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて」とある如来は、――これはでかい。こんな大きいものがやってきて、大地より沸き上がり夜中の満月のように光り輝きながら、釈尊の言ってることは正しいぞ、とやったのであった。

中学の時の修学旅行で奈良に行ったときに、いろんなでかいものをみて、仏教というのは「大きい」んだなと思った。わたくしは、有利な環境で育っていた。なにしろ、町の中で大きいのが学校以外はまだ寺の本堂だったりしたからである。ビルの出現は、我々の信仰を崩壊させた。未知と遭遇やインディペンデンス・デイの巨大UFOが何か崇高なものの地位を奪ったのも同じである。宗教は、悩みの解決のツールになってしまったのである。

 如来が雷音に呼びかけた時、尼提は途方に暮れた余り、合掌して如来を見上げていた。
「わたくしは賤しいものでございまする。とうていあなた様のお弟子たちなどと御一しょにおることは出来ませぬ。」
「いやいや、仏法の貴賤を分たぬのはたとえば猛火の大小好悪を焼き尽してしまうのと変りはない。……」
 それから、――それから如来の偈を説いたことは経文に書いてある通りである。
 半月ばかりたった後、祇園精舎に参った給孤独長者は竹や芭蕉の中の路を尼提が一人歩いて来るのに出会った。彼の姿は仏弟子になっても、余り除糞人だった時と変っていない。が、彼の頭だけはとうに髪の毛を落している。尼提は長者の来るのを見ると、路ばたに立ちどまって合掌した。


――芥川龍之介「尼堤」


芥川龍之介がブッキッシュな人だったというのは一面に過ぎず、彼の目標は人間を過去から点検し思い切り広げて考えることにあったのだろうとおもう。しかしそれはあまり実感的ではなく、内面にこそ大きさがあると確信して内向していったところがある。

比喩と休憩

2022-06-12 22:35:41 | 思想


此の外牛驢の二乳・瓦器・金器・螢火・日光等の無量の譬をとつて二乗を呵嘖せさせ給き、一言二言ならず一日二日ならず一月二月ならず一年二年ならず一経二経ならず、四十余年が間・無量・無辺の経経に無量の大会の諸人に対して一言もゆるし給う事もなく・そしり給いしかば世尊の不妄語なりと我もしる人もしる天もしる地もしる、一人二人ならず百千万人・三界の諸天・竜神・阿修羅・五天・四洲・六欲・色・無色・十方世界より雲集せる人天・二乗・大菩薩等皆これをしる又皆これをきく、各各国国へ還りて娑婆世界の釈尊の説法を彼れ彼れの国国にして一一にかたるに十方無辺の世界の一切衆生・一人もなく迦葉・舎利弗等は永不成仏の者・供養しては・あしかりぬべしと・しりぬ。

「牛驢の二乳・瓦器・金器・螢火・日光」などの沢山の比喩で釈尊は二乗を貶しつづけたのだとあるが、牛と驢馬の乳、瓦と金の器、蛍と日光、など、よくよく考えるまでもなく、どちらも趣があってよいとおもうのだ。比喩というものは相手の常識に価値を委ねる。だから学校でも案外大事なところでは比喩を使ってはいけないのは常識だ。日蓮も、あえて、この後の法華経での二乗の評価に移るにあたって、スプリングボードを用意したのかも知れない。日蓮としては確実に読む者を打ち倒さなければならぬ。打ち倒された読者は起き上がって、――文字通り立ち上がる必要があった。

もっとも、仏教は、求道以外に一種の休憩の意味を持っていた。それは岡本かの子が「褐色の求道」でえがくようなドイツ人の青年に限らない。ドイツの唯一の仏教寺院に参拝していたドイツの青年は、ドイツでの生活に疲れて仏教に惹かれインドに行きたがっていた。しかし恋人への執着をたちがたくみえたので、岡本かの子はヘッセの「シッダールタ」をすすめておいた。時を経て、もう一回岡本かの子が逢いに行ってみると、ちょうど恋人と一緒に寺で手を合わせていたところだった。

「いや、ヘッセの本はまだ買いません。この象徴的な東洋の文字の縦に書いてある鼠色の石碑に向って、あなたの教えた通り手を合せていると、何となく静かな気持ちになって感情がスポイルされます。それで此の間からこの女にも教えてやらせています。けれどもこの女は何とも無いと言うのです。この女が私にくっついて居るうちは私の印度入りは絶望です」
 彼は女を顧みて苦笑した。
 青年はレストーランに残って働き、私は彼の恋人の女優と同じ汽車で伯林へ帰った。汽車の中で、私は彼女に訊いた。
「あなたは何が望みなのですか」すると彼女は猶予もなく答えた。
「私は早く結婚して主婦になり度いと思って居ます。そして、もうそうそう方々を駆け廻らずに、家にいてじっと暮して、掃除だの、裁縫だのをし度いのです」


岡本かの子は、これも仏の導きだというつもりはあるまい。

二乗

2022-06-11 23:18:27 | 思想


どうして僕に指名したりなどしたのだろう。ぎょっとした。立って行って、黒板に書いた。両辺を二乗すれば、わけがないのだ。答は0だ。答、0、と書いたが、若し間違っていたら、またこないだみたいに侮辱されると思ったから、答、0デショウ、と書いた。すると、たぬきは、わははと笑った。
「芹川には、実際かなわんなあ。」と首を振り振り言って、僕が自席にかえってからも、僕の顔を、しげしげ眺めて、「教員室でも、みんなお前を可愛いと言ってるぜ。」と無遠慮な事を言った。クラス全体が、どっと笑った。


――太宰治「正義と微笑」


昨日「開目抄」を読んでいたから、つい「二乗」と聞いて「二乗作仏」のことを思い出してしまった。二乗とは縁覚と声聞で、どちらも自分が悟ることだけに興味がないために成仏しないという見方があるが、日蓮はどちらも本来菩薩なり、といういうわけで、成仏を認めるのであった。上の人物にしたところで、二乗したらいいじゃんかと問題を解いたら、みんなに笑われたのであった。

それにしても、教えに乗るという感覚はおもしろいものだ。帰依とも信奉とも違う。教えに乗ると、電車からの眺めのように、世界が斜めに倒れて動いてゆく。

今日学会で話題になっていたカーライルの「英雄崇拝論」のなかのムハンマドなんか自らが乗り物という感じであり、自分がゲームの主体みたいな感じなのではないだろうか。「怪傑マホメット」なんかは読んでなかったので、今度読んでみたい。末尾にカーライルが引いてあったような気がする。

法味をなめざるか

2022-06-10 23:58:01 | 思想


又其の後やうやく世をとろへ人の智あさくなるほどに、天台の深義は習ひうしないぬ。他宗の執心は強盛になるほどに、やうやく六宗七宗に天台宗をとされて、よわりゆくかのゆへに、結句は六宗七宗等にもをよばず。いうにかいなき禅宗・浄土宗にをとされて、始めは檀那やうやくかの邪宗にうつる。結句は、天台宗の碩徳と仰がる人々みなをちゆきて、彼の邪宗をたすく。さるほどに六宗八宗の田畠所領みなたをされ、正法失せはてぬ。天照太神・正八幡・山王等諸の守護の諸大善神も法味をなめざるか、国中を去り給ふかの故に、悪鬼便りを得て国すでに破れなんとす。


日蓮の攻撃の冴えは、こんなところにもある。世の中がおかしくなったのは法華経が勉強されなくなったためというのではなく、まずは「人の智あさくなるほどに」(お前らがあんぽんたんになるしがたって)と言い、おめえらの頭の悪いのがいけないんだと言っているところが、説教の戦術を知っていると言う他はない。学校の先生などが、けっこう使っている手である。勉強しないから頭が悪くなったのだといわれても、勉強すればいいのでは、と人々は油断する。頭が悪いから勉強しなくなったんだと言われた方が良い。

こう言われた後「天照太神・正八幡・山王等諸の守護の諸大善神も法味をなめざるか、国中を去り給ふ」なのだから、説教される(頭が悪い)我々は、このアマテラス以下の御仁たちも、もしかして法味をわすれたおれたちのせいで神さんがいなくなったのでは、と思うわけである。しかしあくまでも法味をわすれたのは御仁たちだ。御仁たちも主体的に勉強すべきであろうに。確かに神と仏の上下関係はいささかセンシティブであろう。しかし、最初の「人の智が浅くなってるんだ」というパンチが効いている。それが強いから、神の智が浅い、とはならない。

一体我輩のところへはあまり怜悧なものは来ぬ。
[…]時代の進運というものは冷酷極まるもので、自分と一緒に駈けるだけの力のないものをば容赦もなく振棄ててずんずん変転してゆく。見給え、一時は相当の声望信用あって世上に持囃された連中でもいつとはなく社会と遠ざかり、全然時勢後れの骨董物となりさがりて、辛くも過去の惰力によりて旧位置を維持している者や、その惰力さえ尽き果てて、生きながら社会より埋葬せらるる如き悲境に沈淪するものの多いのは、畢竟この時代の進運に伴うべき気力と智識とが欠乏しているからである。


――大隈重信「我輩の智識吸収法」


大隈の悪口も相当なもんで、その悪口が厭なので、鋭利な者が来ないのではないかと思うのであるが、仏教徒たちがしのぎを削っている日蓮の世界より、単に時勢に遅れないために本を読なまくなてはならない大衆社会とどっちが進歩しているといえるであろうか。本当に知恵が必要だと思っているのは、仏教信奉者の喧嘩の方で、法味が失われることに恐怖があったからである。しかし大隈でさえ、智を世に遅れないための必要な道具だ思っている。まず我々は、大隈のような輩を殲滅しなくてはならぬ。

錯節

2022-06-08 12:25:56 | 思想


https://news.yahoo.co.jp/articles/f2bb5267c77aa47ed7e7a95ac24e13e391af733e

西田幾多郎の「善の研究」の着想にいたるノートの綴じたものがみつかった。四校の教え子たち、河合良成などが関わっていたらしい。

その河合良成の『戦時断想』(昭和18)なんかを読むと、四校時代の恩師の西田幾多郎の家に行った文章があって、「かつて随分叱られたこともあるが」、みたいなことが書いてある。しかし強調されているのは老西田が指導者然とした若々しく強い愛国者だったみたいなことである。まるで、西田が松岡外相であってもよさそうな雰囲気の文章であるが、――どうでもいいがどんなことで叱られたのか書いてくれよ。宿題忘れたとか、勉強しなさすぎとか、根性悪いとかいろいろあったであろうがっ。見つかった西田の講義緑は、あまりに難しい西田の講義に対し、ノートを共有したもののようだ。一見、勉強熱心のようにみえるが、こういうことを首謀する学生がマジメでないことはありうることだ。

帝人事件に巻き込まれたり、公職追放にあったり、大臣になったり、といろいろある人である。『戦時断想』を読んでみるに、ただちに隠居していただきたいと思った。愛国者が生悟ってしまうと手が付けられない。悟りとは、西田幾多郎の文章のように蛮骨で錯節していなければらならぬ。西田が、「ならぬ」「ならぬ」と言っているのは、河合のような輩をしかりつける意味があったのだと思う。

そういえば、後援会の会報に自分の研究のこと書いていたら、自分のやってることの宿命みたいなものに気がつき、自分の認識よりも先におれをここに連れてきたのは何だろうと思ったが、やっぱりこれは必然というより自由といったほうがよい気がする。自由が我々を宿命に導くのである。

河合曰く、「今日の、事に若い官僚に最も望ましいのは人生経験だ。借金もし、手形も書き、脅迫もされ、訴へられもして、盤根錯節を経て来なければ、ちょっと人生は分かりませぬと思ふ」と。言いたいことはわかるのであるが、そういう人生を盤根錯節とか言うてるうちに、あっというまに日本は焼け野原にされてしまった。確実に、こういう人にも責任はあったのである。

劈頭

2022-06-07 23:18:51 | 文学


また私は世人が植物に趣味を持てば次の三徳があることを主張する。すなわち、
 第一に、人間の本性が良くなる。野に山にわれらの周囲に咲き誇る草花を見れば、何人もあの優しい自然の美に打たれて、和やかな心にならぬものはあるまい。氷が春風に融けるごとくに、怒りもさっそくに解けるであろう。またあわせて心が詩的にもなり美的にもなる。
 第二に、健康になる。植物に趣味を持って山野に草や木をさがし求むれば、自然に戸外の運動が足るようになる。あわせて日光浴ができ、紫外線に触れ、したがって知らず識らずの間に健康が増進せられる。
 第三に、人生に寂寞を感じない。もしも世界中の人間がわれに背くとも、あえて悲観するには及ばぬ。わが周囲にある草木は永遠の恋人としてわれに優しく笑みかけるのであろう。
 惟うに、私はようこそ生まれつき植物に愛を持って来たものだと、またと得がたいその幸福を天に感謝している次第である。


――牧野富太郎「植物知識」


「もしも世界中の人間がわれに背くとも、あえて悲観するには及ばぬ。わが周囲にある草木は永遠の恋人としてわれに優しく笑みかけるのであろう。」というが、もしそんなことになりゃ、草木どころではなく、草葉の陰のことを考えなくてはならぬ。

民俗学者は進軍する

2022-06-06 23:13:02 | 思想


柳田國男が中野重治との対談の中で、本居宣長がいちばんくわしいのは中世だと言い切っていたが、こういう思い切りが我々にはなくなっているとは思うのだ。しかし、これは雑なのではない。エネルギーの迸りなのである。文章もちょっと我が儘だけどしゃべりもけっこう我が儘で、弟子の折口を困らせたりして?面倒くさい師匠である。中野重治をこんなに恐縮させているのは彼ぐらいではないだろうか。

柳田が言ってるように、農民の間にあった、夫婦の間では「行かんせ」、母親には「行かっしゃれ」といった使い分けがなくなって、目上はすべて尊敬語だみたいなのがまずいのだ。人間関係が以前よりも全て上と下みたいな関係に還元され、それが厭なら完全に平等になってないと心理的にきついという地獄になってしまった。

出生率の低下と家の機能の低下?について、いずれぼこんと凹になってしまう世代の出現によって困ったことになるだろうという予言も見事に当たっている。共産党の評価も的確であるきがする。

しかし、この明晰でエネルギッシュな知性は、子規の運動は俳句というよりむしろ風景の見方の革新に過ぎず、短歌も俳句も不自由だ、地を這っていると言い放つところがある。折口の気分は下のような具合であったに違いない。折口も柳田も、イメージよりもものすごく未来志向な人間であり、新たな表現に興味があったのだが、進みゃいいというものでもなく。

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどのかそけさ

迷い込んだ椋鳥

2022-06-05 22:48:43 | 日記


そこで私は椋鳥主義と云ふことを考へた。それはどう云ふわけかと云ふと、西洋にひよこりと日本人が出て來て、所謂椋鳥のやうな風をしてゐる。非常にぼんやりしてゐる。さう云ふ椋鳥が却つて後に成功します。それに私は驚いたのです。小さく物事が極まつて居るのはわるい。譬へて見れば器の中に物が充實してゐる。そこで歐羅巴などへ出て來て新しい印象を受けて、それを貯蓄しようと思つた所で、器に一ぱい物が入つてゐて動きが取れぬ。非常に窮屈である。さう云ふやうに私は感じました。何だか締りの無いやうな椋鳥臭い男が出て來て、さう云ふのが後に歸る頃になると何かしら腹の中に物が出來て居る。さういふ事を幾度も私は經驗しました。物事の極まつてゐるのは却つて面白くない。

――森鴎外「混沌」