★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今から百年前の子ども

2024-06-15 23:53:11 | 文学


「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
 なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。


――「第三夜」


漱石には、仁王を掘り出す話もあるが、小説自体の解釈はともかく、分かる発想であると感じる人は多い。それは、職業の持つ他性みたいなものとあいまっている。わたくしはもしかしたら先祖が漆器職人だからなのか、ときどき木を掘りたくてしょうがない。何を掘るかを定めずに手が勝手に掘り始めるきがするわけである。町のいろいろなところに落書きしたり何か掘ったりする連中は、案外、そういう欲望持ってるのかもしれない。ネット上の落書きだってほんとは木彫りみたいなものかもしれないのだ。

しかし、ただの木と違ってネットは、人の頭を掘るみたいな行為である。彼は盲目の内に、書き込まれる。

ネットにものを書くようになってから肩に重い子どものが乗っているような気がしてる人は少なくないであろう。自分ではなく人が見る文を書くこととは、漱石じゃないが、過去の他人の罪までも背負うことである。漱石は、そこに父による子の殺人みたいなものまで背負わしている。現在は確かに過去を殺す。

こんなものかぶっていたのか。ごらん、目のところにガラスをはめて、中に

2024-06-14 23:02:12 | 文学


「あっ、これ人間だよ。人間が、ゴリラの皮をきているんだよ。」
 ポケット小僧がさけびました。われたところから見えているのは、黒いシャツのようでした。
「それじゃあ、頭も、ゴリラの頭をかぶっているんだろうか。」
 小林君が、大きなゴリラの頭を動かしてみました。手ざわりがへんです。ゴリラのはくせいの頭らしいのです。
「ポケット君、これをぬがせてみよう。」
 そういって、ふたりが、力をあわせて、ゴリラの頭を、まわしたり、ひっぱったりしていますと、だんだん、胴体からはなれてきて、やがてスッポリとぬけてしまいました。
「なあんだ、こんなものかぶっていたのか。ごらん、目のところにガラスをはめて、中に豆電球がとりつけてあるよ。」


――江戸川乱歩「仮面の恐怖王」


かんがえてみると、このようなカラクリを暴いてみせる瞬間を引き延ばしてゆくことが、後の仮面ヒーローの物語となった。彼らはホントは変身していない。被っているのである。たしか石ノ森章太郎の原作ではよっこいしょとヘルメットを被る感じで仮面ライダーになっていた。

このカラクリの苦行をヒーローの苦行としてまじめに描いているのが『劇光仮面』である。

そういえば、「仮面」を被りたがるのは男の子に限らない。むかしから「鉄仮面」を被らされていた女の子がそれを脱いでから大活躍する物語があった。結局、男の顔は鑑賞に値しないが女子のそれは値するから脱いでしまうのであろうか。――それはともかく、たしか女子ライダーの最初のものはテントウ虫のそれであった。どこかで読んだが、「女子にライダーがいないのは不公平だ」とかいう理由だったという。しかしそれは、方便だったんじゃないか。小1以前の人間たちはたいがい女子のがでかい訳で、病弱のわたくしにライダーきっくをかましてきたのは半分以上女子であるからして、而して乱暴女子をおさえこむための公式「相対的に弱い女子ライダー」だったんじゃないだろうか。

思うに、男女ともに、あの仮面がフルフェイスのヘルメットである意味は、それが一種の「緊箍児呪」だからではなかろうか。それは適度に善行を行えば匿名性が正義となり、過度に暴力をなせば匿名の暴力、つまり権力となる。その適度な形を発揮するために、中国では顔が出ていても可能だとかんがるのに対し、我々は顔をかくさなければ、善も権力も発揮できない。

ローカル化

2024-06-13 23:02:02 | 日記


及川 川崎球場でサードを守っていると、僕らの目の前だから「落合、打球来るぞ〜来るぞ~」って、 ヤジるんですよ。 そうすると落合さんはこっちを向いて口パクで「バーカ」って。僕らも「あー! お客さんに向かってバカって言ったー」と必要以上に騒ぎ立てる(笑)。川崎球場ってホントにボソッとしゃべったことが球場全部に聞こえるんですよ。


――横山健一×及川一巳「落合博満と青春のロッテオリオンズ」


この性格はネットそのものであって、つまり、ネットの世論というのは、地方球場の野次化にちかく、世界が広がったのではなく、きわめてローカルになっているということである。

ネットだけではない、文化もローカル化している。例えば、「龍の歯医者」というのみた。NHK放映。スジオカラー制作であるから庵野秀明の處である。この作品に彼がどれだけ関与しているか知らないけど、エヴァソゲリオンやそれ以外の庵野氏関連の作品が基本的に子どもへの説教であることは、むかしNHKで、なんとかのナディアをつくったことが大きかったのかも知れない。みんないってるんだろうけれども。つまり、社会現象化していてもある種のアニメは教育テレビ化しているのであった。

政治のことをきちんとやらず、黄色い新幹線の引退が残念とかながながとやってるNHKニュースのなかのひとたちはバカなのか、あるいは鐵オタである。オタクの中でも鐵ちゃんだけは許せるとか言っているからだめなのだ。ニュース自体のオタク化が起こっている。これもローカル化の一種であろう。

生活は、こういうローカルなものではなく普遍的な性格がある。電車にアニメみたいなペイントがでかでかと描いてあるのは、朝から心にローカル化の負担がかかるのでやめて欲しい。アンパンマン列車もおなじだ。

うちの庭の蛙が去年よりもでかくなっている件

2024-06-12 23:51:19 | 文学


翌朝、天幕を出てみると、百七、八十貫もありそうな牛のような異様なけだものが三十頭ばかり草を食っている。身体は密毛で蔽われ、額から波のように垂れた長い毛が顔を包みこみ、眼鼻もわからないほどになっている。尾は絵にある唐獅子にそっくりで、草を噛む音は櫓をこぐよう。眼つきに凄味があって、いまにも突っかけて来るのではないかと思われるくらいだった。これは西蔵高原の不毛の寒地に野生しているヤクという動物で、北部ではもっぱら駄用乗用に使役し、肉と乳は食料、皮は沓に、毛は織物に、糞は乾かして燃料にする。見かけは恐ろしいが牛よりも温柔だという。そう聞くと、これに荷をつけてゆけば長旅の苦労は半分に減ると思い、乾隆銀幣(西蔵銀貨)を出してたのむと、金などはいらない、マナサロワール湖の手前の河のそばに弟の天幕があるから、そこへ置いて行けばいいという。礼をいってヤクを一頭借りうけ、その背に荷を預けて北に向いて歩きだした。玄奘三蔵のお伴はお猿と猪だったが、こちらはヤクかと可笑しくもあった。

――久生十蘭「新西遊記」


基本的に、三蔵法師みたいなお経をとりに行きたがるのは文献派であろう。それは、わたくしの学生時代の如く、図書館というジャングルを熊のように動き回り宝探しをするやからであって、孫悟空にしても上のヤクにしても図書館のなか、あるいは図書館に行く途中の本屋でみつけた珍しい文献みたいなものだ。しかし、こういうやり方は限界が来る。だいたい孫悟空やヤクがほんとはたいして珍しいものではなかったことが年月を経るとわかってくるからだ。学者はそれ以降、みずからが古い文献みたいになりながら動かず考える道に流れていきがちである。休息は必要であるが、それは睡眠と読書である。一部の者は執筆こそが休息の場合がある。

博士論文を三年で書かせて追い出せみたいな政策がまた浮上してきているが、こういう政策は頭が悪いだけでなく根性が悪く、というより何より趣味が悪い。研究者の土台をつくるんだというのは正論の方が確かにまだましなのであるが、――しかしもともと大学院というのは本来的には梁山泊的なサロンでないと面白くない。だから、国家の尖兵でしかない大学には存在が難しかったのかもしれない。で、漱石や西田がつくったのはそれであった。寺田寅彦は漱石が死んだときに、じぶんにとって先生の文学はたいして重要なものじゃないが先生そのものが重要なんだ、と言ってたが、いまのひとはだいたい、人よりも残された文章がとかすぐ言うからつまらない。――こういうつまらなさも博論三年でかかねばデテケみたいなのの変奏にちがいない。大学院に行くときには、楽しいサロンがありますたぶん変人だけと妙に博識な愉快な先生がいて、自分も何か素晴らしいこと思いつくかもしんない、という期待が大きいわけだが、――入ってみたら、論文生産マシーンと業績サイコパスの巣窟だったら絶望である。素朴な感情的意味でいやだ。むろん、梁山泊であるから、自分がだめだったら相手にされなくなるだけだが、まだ相手が面白い相手だったら納得もゆく。しかし、相手がマシーンやサイコパスだったら機械に舐められたという嫌な感じだけが残る。

たしか、小山慶太氏だったと思うが、物理学というのは自然への攻撃だみたいな云い方をしていて、文学もそういう攻撃かもしれないことを示唆していた。これはしかし、こういう世界観がその時代に幸運にも成立して、西と東でシンクロしていたのであろうか。わたくしはそうは思わない。結局、寺田寅彦が漱石におもしろそうだから物理学を教えたがった人だった、漱石がそれをつかっていいこと言うからであった。

制度改革みたいなのは一定の意味がある場合があるのだろうが、それをした場合に、その改革に適応した者のなかに悪い怪物がでてくる可能性が高い場合と低い場合があると思う。プラス面とマイナス面を理性的に判断できると考えるのは、人間の存在をちょっと舐めてると思う。ばかな政策にはかならず馬鹿な人間が現実的な判断と称して、まったく別の目的のためにそれを使用してしまう。例えば教育学部では、人間性を土台にして教育を教えようと殊更観念的=実践的に頑張るみたいな、中学生でも一秒でだめだと分かる方向性を内面化してゆくことによって、このままゆくと、学校の先生のかなりの部分が遠慮気味に言っても勉強が出来ず嫌いである状態になる。で、ただの必然として、そういう人ほど勉強出来ない人間をバカにしたりする。結果的に人間性どころの話じゃなくなっているのは自明である。

聖歌隊の子どもをあつめて警察やってるわけじゃないんで、

2024-06-11 23:39:38 | 思想


ときには、うまくけりをつけて.....昔よく言ってたように、住民の調停者になるんです。軽い罪ならうまく調停して、裁判までいかないですむようにしてやるんです。別にそんなことしたいと思ってするわけじゃないですけど、十五歳のガキに往復ビンタをはって、そいつのおやじのケツに蹴りを入れれば、それで、どんな訴訟手続のかわりにもなると思いますよ。そのガキが、ちょっと魔がさして、デパートで万年筆を盗んだとしてもですね、そんなのは、とんでもない犯罪じゃないですよ。自転車とか、原付とか、そういうのは車じゃないわけで……友だちにみせびらかしたかったとか、ダンスパーティに行きたかったとか、そんな他愛のないことですよ。それに結局、うちらは、聖歌隊の子どもをあつめて警察やってるわけじゃないんで、警察は人生を生きたことのある人間でやらなくてはいけないんです。

――P・ブルデュー『世界の悲惨Ⅰ』(荒井文雄他監訳)


最後の「ないんで」のあとについている読点が気になったが、この書は全体として情感をつくることに成功しているようだ。月曜日の授業で、ドゥルーズの『シネマ1』における「戦艦ポチョムキン」の分析が正しいのか映像をみながらかんがえたのだが、顔(の消失)による情感は、ほかの様々な映像とともに動いていき、上映した映像は、ショスタコービチのやかましい音楽とともにあるのだ。考えてみると、ブルデューのようなインタビューと解説付きの整頓が必要なこともあるわな、とわたくしはドルゥーズに沿って学生には違うことをいいながら、そう思った。

かくして、ひさしぶりにドゥルーズを読んでみたわけだが、――主旨が分かりやすいかどうかは知らんが、すごく丁寧にゆっくりな論理展開だ。これからスピードを感じる感性はなにか変だぞとわたくしは思った。

絵画化とか認識

2024-06-10 23:14:26 | 文学


藤原的栄華のひとつの特徴は、装飾における、細部への入念な凝りやうにみられる。鳳凰堂や工芸についても述べたが、貴族女房たちの趣味や情感が、いよいよ繊細に、優美の極限を求めたことが、「細部」において理解されるのだ。密教密画の影響もあつたらうが、中世風の「省略の美」とはまさに対蹠的である。
 そして興味ふかいことは、地方の大豪族も新興武士階級も、この「細部」で藤原族に征服されたことである。平家一門と平泉の藤原三代がいゝ例だ。政治的経済的にも、また武力の上でも、彼らは藤原の栄華を覆滅させるくらゐの実力はもつてゐた。しかしこの種の造型美によつて、逆に呪縛された。そして彼らの方が没落して行つたのである。
 藤原の栄華に発した造型美は、自他を陶酔させるとともに、内部崩壊をもたらすやうな一種の魔力をもつてゐたやうだ。たとへば平家納経などに私はそれを感じる。平家一門が厳島神社に奉納した写経である。法華経写経の見返しに、なまめかしい女房の姿などを描き、その上装釘も実に凝つたものである。
 納経は信仰の行為である。信仰のまことを素朴に表現すれば充分なのだ。それを敢へて華美を求めたことは、阿弥陀堂美化の精神に魅了され、呪縛されたことを物語るものである。同時に、源氏物語絵巻の延長線上の最後のかたちと言つてよい。平家一門は、藤原に代つて一時政界の中枢を占めたが、その造型美によつて、またゝくまに征服されてしまつた。


――亀井勝一郎「物語の絵画化について」


絵が時間が止まっているなどと言うと、浅い意見だとも言われそうであるが、――そりゃまあそうなのであるが、やはり止まっているものはとまっているのだ。実際、物語や和歌は動いているのに、それを絵に起こそうという発想自体にルサンチマンがある。それがわからないほどに症状が深い場合が多い。

もっとも、それは同情の余地もあるのだ。とにかくある種の人々は忙しく、時を止めたい勢いである。

みなが忙しくなり、つまり自分が奴隷的であることを自覚して自意識過剰になり、お世話係をやる精神的余裕がなくなる。で、新たに発見されてしまったのがケアの論理で、結局お世話係を作り出すロジックとして利用されたのではなかろうか。ある種の多様性を保証するためのお世話係の存在は昔からあった。ほんとうはいまもそれが行われているに過ぎないのではなかろうか。

我々の業界の場合、加之、業績評価が給料に反映とかもっともらしいことが強制されたことで、ケアなんか人に任せて業績に集中できるようなタイプと、そうでない人が分離された。「お世話係」と「ケアされるそのほか」が分かれて、下手すると後者が「出世」する道まで出来上がっている。で、よくあるパターンが、両者の極点にある人間などが、その無様な現実の矛盾的な姿にいらいらして、自分はその矛盾にしたがわぬ、と蹶起するのである。――かくして、コマイ努力と均衡を矛盾と感じるタイプ、則ち空気を読めないのでむしろ優れていると思っている矛盾的快楽に酔う人間が権力を持って、ほんとにいろいろ読解ミスを起こし、断行に断行を繰り返すという事態が出現する。もともと周囲へのルサンチマンが原因であるから、むしろお上の断行に同調して断行を繰り返すことさえあり、しかし、人間のやることであるから、むろん、ときどきよいことも含まれており、――均衡に努力するタイプ=周囲はますますわけが分からなくなってゆく。ファシズム研究でもよく言われる、それは上と下からくる、というやつであろうか。むしろ、あっちとこっちからきて知らないうちに上の隣にいるというかんじである。

そもそも我々は他人に対するのと同様に、自分の行為をそれほど正確に認識出来ない。他人の読解力をくさす人は多いが、自分の言ったことも大概怖ろしく誤解していることが多い。この前自分の講演の録音聴いたら、怖ろしい暴言しちゃったと記憶してたところが案外そうでもなかった。案外社会的な顧慮がある話し方担当の自我があるとしかおもえない。これが逆転して、話し方担当が暴言担当になっている場合があるのだ。この場合、記憶ではもっと柔らかく認識されていたりするのである。

「ぶっちゃけ論」論

2024-06-09 23:00:33 | 文学


こは如何にせんとあきれたるに、洞の奥に声ありて、「はやく捉へて伴來れ」と呼るほどに、其かたちさまざまにおそろしき妖邪五六十人出来り、三人をとらへて魔王の前につれ行きたり。おそるおそる頭を上て是を見るに、眼は電のごとく、こゑは雷の如く、左右の牙するどく現れ、鉤の如き爪を鳴らして摑み吃んとす。 時に外面より按内して、「熊山君特處士來れり」と罵て、二箇の恠物入来り、何事にや物語り終り、三蔵が二人の従者を引裂てことごとく喰ひ、東方既に明なんとする時、あまたの妖怪何所ともなくかきけして見えずなりぬ。

三蔵は旅に出たとたんに妖怪に襲われた。そんな馬鹿なと思う人は書生ぐらいだ。三蔵なんかお外にでたら一瞬でやられてしまうに決まっているのである、――これは、学者なんか文弱にきまっている、武装もせずに世の中渡るのは無理で、、みたいな理屈であり、わたくしはこのようなものを、とりあえず今日の處は、「ぶっちゃけ論」と言っておきたい。しかし、学問や批評というのは、ぶっちゃけと絵空事の間にすごく具体物、その具体物の反映と派生物などなどがあることに注目するものだ。特に批評は、学者と妖怪の間を取り持つ「発見」をする役割だったはずだ。それは学問への扉であり出口をつくることである。妖怪に寄り添うことではない。

評論家や学者が、発見ではなく、外部的自分が「ぶっちゃけ論」をやってあげます、みたいなことを言う人になってしまった理由は一体何なのであろうか。たぶん有名媒体とかがまだ機能しているからであろうが、それにしても象牙の塔でもそういう人が多いので困惑のいたりである。ドグマにとらわれていない自分は「ぶっちゃけ」お前に××と言えるぜ、という云い方って、私が目撃してきた、ある種のいじめ主犯者の言い分なのである。そのドグマはかなりの確率で学校的なものを指している。田舎の学校を出たわたしにいわせると、ほとんどの連中にとっては学校なんかもともと権威ではない。連中は学校をバカにしているのではないのだ、いじめの時の方便なのである。対して、学校が輪切りの頂点にある進学校出身者におけるマジョリティとは一応学校を権威とみる風な姿勢をみせている。で、上の権威とも思っていない人間たちにくらべて、内なる自分が反学校のマイノリティである。彼らの上のような「いじめッ子」化は、かつて学生運動に入る勇気がなくて自分を責めていたタイプが就職してからなんかガンバルとかと同じで、卒業後にマイノリティだと自分が思っているものになるというパターンではなかろうか。学校世界で自分の周りに反抗的になれないような人間がまたおなじような過ちを犯しているとおもわないところが変であるが、意識的であるがゆえに思えないのであろう。ブルデューは、ハビトゥスとは「無意識」なんだ単に習慣ではないんだと言うが、そこまで人間は素朴であろうか。

つまりこの「ぶっちゃけ論」は、通俗化したブルデューみたいなものだ。ブルデューの原点には、フランクフルト学派が妙に上流階級のようにみえた経験がある。だからなのかわからないが、彼の研究が持つ、読者のルサンチマンを吸い込むブラックホールみたいな性格は顕著だとわたくしは思う。結果、おそらくブルデューのように、読者はルサンチマンを吸い込まれて正義派の紳士になる。最近は学会とかでもハラスメント的な発言はやめましょうみたいな宣言があったりするが、それで世の中うまくゆほど甘くはなく、その威嚇的な言論が抑圧していたのであろう、あきらかにお☆子なタイプが台頭してきている。威嚇に対しては威嚇はやめよと言えるが、頭がお菓×いのはやめてくれとはいえないのだ。しかし、このタイプは、えせブルデューが庶民的で紳士なので、幇間的な態度でいけば仲良くなれ、且つ威張れると思ってしまったタイプなのではないだろうか。――もっとも、こういう状況にいらいらしすぎると、彼らに対してはどこか階級的暴力をしてしまう可能性がある。ついに、プチブルジョアに対する貴族的な何かが暴力として生成する時代になってしまった。

うえの「ぶっちゃけルサンチマン」の起源はどこらあたりにあるのか。まったくわからないが、――彼らと同世代であるわたしの経験を記しておこう。学費値上げ反対闘争はむかしからあり、大学に入っておれもやるのかなあと想像していたところ、行われていたのは、一部の過激なセクトとは距離をとった、学食うどん・カレー値上げ反対運動で、どうみても十分やすいのに要求を呑まされた食堂のおばちゃん達がかわいそうであった。で、結果、おされな資本主義のまわしものみたいな食堂がとってかわり、値段は爆上がりし、それに慣れた腐敗学生の巣窟になってしまったのである。あのあたりから、運動が「調子こいた腐敗大衆」に抑圧されたマイノリティ(つまり自分である)擁護に変わっていった気がする。転向というのはいろいろな現実を背景に起こるものである。

緩やかに言い直して、現代の啓蒙主義的なひとたちと呼ぶが、そこに大正教養主義とか日本の大学の頑迷性をみてもしかたがない。八〇年代からゼロ年代をよく考えなきゃいけないのである。

大学の研究者は案外、大学や、へたすると大学院の段階で対象の面白さに目覚める「遅い」タイプが多い。上のひとたちの世代はとくにそうだ。受験戦争の延長の側面があるのである。しかし、大学に入った頃にすでに文学や思想にくるって10年ぐらいみたいな年季の入ったわたくしのようなタイプは、入学した頃はすでに面倒くさいかんじになっている。しかしマジョリティが文学青年ではないので、大学はあまり大切にしてくれない予感があった。特に大学院ではそれを感じた。わたくしは、先生達に恵まれたから生きのびたが、みんながそうであったとは限らないと思う。

庭の紫陽花――顔

2024-06-08 23:57:49 | 文学


日は茂れる中より暮れ初めて、小暗きわたり蚊柱は家なき處に立てり。袂すゞしき深みどりの樹蔭を行く身には、あはれ小さきものども打群れてもの言ひかはすわと、それも風情かな。分けて見詰むるばかり、現に見ゆるまで美しきは紫陽花なり。其の淺葱なる、淺みどりなる、薄き濃き紫なる、中には紅淡き紅つけたる、額といふとぞ。夏は然ることながら此の邊分けて多し。明きより暗きに入る處、暗きより明きに出づる處、石に添ひ、竹に添ひ、籬に立ち、戸に彳み、馬蘭の中の、古井の傍に、紫の俤なきはあらず。

――泉鏡花「森の紫陽花」


わたくしの庭も森化してきているので、泉鏡花的になっているに違いない。

今日は、ヘーゲル学会と自分のいる学会を往復した。むろん、オンラインなので出来たことだ。あと8ぐらい学会を増やせば、聖徳太子の気分である。しかし、その前に、ドゥルーズが言うように、顔が輪郭を失って、パッションと化してしまうであろう。考えてみると、ドゥルーズが論ずるみたいにシネマじゃなくても、仕事が群衆化してマルチタスクがあまり増えると、なにか顔の崩壊は起こるのではあるまいか。だから、政治家などの顔が悪いのでは。。。

老眼鏡忘れた朝

2024-06-07 23:02:25 | 文学


……と……そのうちに或る突然な決心が私に襲いかかった。その決心に蹴飛ばされたように私は、素跣足のまま寝台を飛び降りた。宿直室を飛び出して、隣の室に通ずる、暗黒の廊下を突進した。
 ……するとその途中で何かしら真黒い、人間のようなものと真正面から衝突したように思うと、二つの身体がドターンと人造石の床の上にたおれた。そのままウームと気絶してしまった。
 巨大な深夜のビルディング全体が……アハ……アハ……アハ……と笑う声をハッキリと耳にしながら……。


――夢野久作「ビルディング」


朝。
大学へのバスから県庁が新興国のなにかのようにみえる。
大学に着いたら、老眼鏡わすれたことに気がつきました。

或は

2024-06-06 23:44:42 | 文学


幅六尺ほどのこの渠は、事実は田へ水を引くための灌漑であつたけれども、遠い山間から来た川上の水を真直ぐに引いたものだけに、その美しさは渓と言ひ度いやうな気がする。青葉を透して降りそそぐ日の光が、それを一層にさう思はせた。へどろの赭土を洒して、洒し尽して何の濁りも立てずに、浅く走つて行く水は、時々ものに堰かれて、ぎらりぎらりと柄になく閃いたり、さうかと思ふと縮緬の皺のやうに繊細に、或は或る小さなぴくぴくする痙攣の発作のやうに光つたりするのであつた。

――佐藤春夫「田園の憂鬱 或は病める薔薇」


ここまでくると、もはや、或は私は居ないのである、みたいな感じであるが、文学者たちはそうなりきれなくて呻吟している。対して、西本聖投手の自伝はなぜか『長嶋監督の往復ビンタ』という題名で、表紙も長嶋監督の写真である。いまみたいに、自分の写真をでかでかと載せている本に比べてさすがとしかいいようがない。

あるいは、自分以外に興味がありすぎてというか、ほんとは誰かの罵倒芸を真似してみたいだけかも知れないが、――常に自分以外が没落し続けるのでどんどん自分だけかえらくなってゆくひとがいる。「或は」よりも速やかに。

そういえば、カスハラ対策で、文句言ってくるハラッサーの音声をその場で変換して、担当者の心理的打撃を小さくする対策があるとテレビで知り、笑った。わたくしのような、おじさんはもうついていけない。自分が毒虫や箱男になる前に、或は相手を怪物にしてしまおうという作戦である。

動くモンテーニュ

2024-06-05 23:16:45 | 文学


「貧僧不敏なりと雖も、願くは生命を捨てて西天に赴き、眞經をとり来るべし」と奏聞すれば、太宗御感斜ならず、二人の従者と白馬一疋を賜り、吉日を選んで首途をなさしめ給ふ。玄奘法師恩を謝して都を立出でぬれば、太宗皇帝もろもろの官人と共に関の外まで送り出で給ひ、自手御盃を賜り、勅して宜ふは、「酒は僧家の制禁なれども、此一杯は朕が餞別なり。快く飲ほして別の情を盡すべし。且三臓の眞経を需め帰る你なれば、今より三蔵と弱くべし」と仰せければ、玄奘法師君思の深きに落涙止めがたく、太宗皇帝に辭謝し奉り、衆人にわかれを告げ、西方さして行きける。

三蔵法師は西方にゆく、――むろん天竺を目指していた。そういえば、わが国も、西に――中国に行きたがった時代をながくすごしていた。アメリカからの蒸気船の衝撃というのは、実際は太平洋の存在への驚きであったかもしれず、我々には更に東側への道があったのだと気付かされたのである。それでも古風な習慣というのは、ロシアや西洋への道を探らせた。「西方の人」(芥川龍之介)ではないが、近代文学はその反映である。日いづる地点はもっと東側にあり、東洋を起点にアメリカにむかって扇を広げる形で我々はその東側に向かおうとしたが、あいかわらず大きな海が立ちはだかっていたことは確かである。結句、米国との戦争に負けることでその扇は成し遂げられた。

三蔵法師の西への旅は、いわば、モラリッシュエネルギーみたいなものであった。昨年、大河ドラマへのコメントで誰か言ってたんだろうけど、御成敗式目へ向かう武家のエネルギーを、戦時下の京都学派の一部がモラリッシュエネルギーと名付けていたわけだが、当時の戦争が、憲法や法律の方向に向かっているようにはみえない。われわれにとって戦争とは花田清輝のいう「ミュージカル」どころではなく、西へのそれを東側に裏返しただけの旅だったのではなかろうか。わたくしは、蒙昧な狸の泥船が沈む太宰の「カチカチ山」――「低能かい。それぢやあ仕樣が無いねえ」という言葉を思い出す。

竜宮ではないが、魚の墓場というものがある。起伏の多い深海で、片方に岩礁が峙ち、洞窟のようになり、底は一面の白砂、藻の類もない。ふしぎに静かで、暴風の時にも、そこだけはひっそりしている。つまり海底の岩陰である。そこに、病気の魚貝類が身を寄せて、静かに死んでゆく。

――豊島与志雄「竜宮」


われわれの半分ぐらいは海の民であったから、上のような風景を知っていたはずだ。しかし、海を目の前にしてせいぜい桃太郎の鬼ヶ島への航海みたいなイメージしかわかなかったのはおかしい。われわれは、いつもどうして具体的なものが浮かばない傾向があるのであろうか。普段はモノへの執心はあっても大きなものをめのまえにすると頭が動かないのである。西洋世界が繰り出す大きな概念、多様性でもLGBTQでもなんでもいいが、そういうものが大事だと実感をもって言いたい方は、結婚をするか小学校の先生をするかしていただいて、自分がどういう生き方が可能だったか報告するのがよいにきまっている。自分が多様な生き方の一端を実現するのもいいが、目の前の誰かと違っているだけかも知れないのだ。もっと簡単で苛烈な方向に目が行かない。

――こんな感覚について、わたくしは高校の頃から課題だと思っていたから、近代の精神の嚆矢であると言われてもいたモンテーニュなんかを読んでいた。飜訳については、関根秀雄氏のものでよんできたので、最近の訳よりもよみやすい。で中古文学の関根慶子氏が妹だと初めて知ったわ。。――それはともかく、若者の頃、その「エセー」はすごく深い気がしたけど、いま読み直すと、その深さはすごくねじまがった特殊なもののような気がしてきた。それは引用で厚塗りしすぎて訳が分からなくなった肖像とも言えるんじゃなかろうか。そして、この厚塗りの自画像は、ネット時代の我々のそれに似て、非常に危険な何かだったのかもしれない。エセーの冒頭に「わたし」を描いたんだと言い放つ彼は、ルソーがえがく自分を自分で愛するおかしな人間よりも、――他人の体をつなぎ合わせて自分だと称しているおかしな人間だ。こんな事が可能なのは、歴史も現在も無視する動かない人間だ。まだ、西へ東へ行こうとする人間の方が見込みがある気がしないでもない。しかし、いまや、そういう人間こそが動くモンテーニュという怪物としてあらわれているように想われる。

香川には岩山が不足している

2024-06-04 13:12:46 | 文学


夜になって、ふしぎな岩は、そっと動きはじめました。岩が動くってへんですね。
 あわいお星さまをすかして、霧のような山風が、ひくい谷間から、ごう、ごう、ごうと吹きあげています。どこかの森の方で、フクロウが鳴いています。岩は、どっこいしょと起きあがって、せいいっぱいにのびをしました。
「ああ、いい気候になったな……遠いところへ旅行をしてみたいな。」
と、ふしぎな岩は、むくり、むくりと少しばかり歩きました。


――林芙美子「ふしぎな岩」

植物たちが6月で元気

2024-06-02 20:01:52 | 文学


「よしなさいよう。よしなさいってば。――」
 それから良平は小声になった。
「見つかると、お前さん、叱られるよ。」
畑の中に生えている百合は野原や山にあるやつと違う。この畑の持ち主以外に誰も取る事は許されていない。――それは金三にもわかっていた。彼はちょいと未練そうに、まわりの土へ輪を描いた後、素直に良平の云う事を聞いた。
 晴れた空のどこかには雲雀の声が続いていた。二人の子供はその声の下に二本芽の百合を愛しながら、大真面目にこう云う約束を結んだ。――第一、この百合の事はどんな友だちにも話さない事。第二、毎朝学校へ出る前、二人一しょに見に来る事。…


――芥川龍之介「百合」






不良と非悲

2024-06-01 23:50:51 | 文学


扨も太宗皇帝は、闇王に瓜果を送り、相良に金銀を返し、「今は施餓鬼を修行して陰司の約束を終るべし」と、天下の名僧をまねきあつめ、其中より選み出し給へる導主には、西方金蝉長老の轉世奘禪師、則陳光雌蕊が子、殷開山の外孫なり。此時貞観十三年九月三日、化生寺に壇をひらき、一千二百人の僧をあつめ、施餓鬼の大會を執行ひ給ふ。

孫悟空の物語には、ちゃんと施餓鬼がよいものだというような前提がある。これにくらべるとニーチェのほうがよほど獣の思想家だし、例えば「青春ヒヒヒ」という漫画なんか天才的である。作者が壇蜜氏と結婚しているのもすごい。孫悟空なんか大した不良ではない。だから「ドラゴンボール」にも変形可能なのである。こういう半端な人生訓でなまざとりしているのがその実、天皇制なんかを支えているとおもうのだ。

最果タヒなんかも相当な不良である。もうすでにいい歳の筈であるが、中学生1年生の頃気分のことを題材にしている。最新詩集少し読んだが、刊行ペースがはやいせいかどれが最新だか分からなくなってきた。ある意味で、処女作からの成熟を拒否しているのであろう。もう恋愛とか「好き」とはなにかみたいなことをいいながら突然死ぬタイプなのではないか。恋愛や「好き」で人生そのものの破壊が可能かどうか試みているようだ。

むかしから、「先生は悲しいです」みたいなせりふを説教として言ってしまう教師を心からバカにしていたが、考えてみると、「悲しい」という感情そのものがわたくしはよくわからない。絶望や喜びは分かるような気がするんだが。モンティーニュも「エセー」の最初のほうで、悲しみとはあまり縁がないんだと言って、いつも理屈の外皮で覆ってしまうのでみたいな理由をつけていたが、わたしの言っているのはそういうことではない。