光一元、無条件の愛、無限の力をあなたに…
暗い、悪い、ネガティブな生き方などサヨウナラ…
相も変わらず、スピ界隈では、明るくポジティブなフレーズがてんこ盛りという感じです。
でもね…私は何度でも言います! まずあなたを待ち構えているのは”闇”なのです!
闇の勢力によって、あなたは捉えられ、蹂躙され、全ての能力、学んできた幸福な教えもはく奪され、暗黒の魔王の前に突き出され、あなたがこれまで犯してきた罪という罪は白日の下に晒され、世にもオソロシイ裁きが待っている…
あなたはこの恐怖に耐えられるだろうか…死んだ方がマシなのだろうか…これが世の初めからの大陰謀なんです!
私は…”もう、何時死んだっていい!”と感じさせられました…あまりの幸福感で!
ここで闇と言っているのは、悪のことではありません。
思考を超えた、上よりの力に捉えられる状況のことで、”善悪の彼岸にある”という事を言ってます。
罪だとか裁きといったことでも、それまで問題を抱えている頭であれこれ、クヨクヨ考えてる事とは、違った様相で感じられます。
(こういう事は、しかしあくまで私の感じたことなので、人がどう感じるかはホントは知ったこっちゃないんですけど…)
この闇~無化させる力は、それ自体悪ではないですが、私は悪というものの成り立ちには深く関係が有ると思っています。
私は”神を信じている”という人を何人も知っています。彼らとの話でその奉じている信仰に関した話になると、とてもその相手は乗ってくるのですが、具体的にその神に直接触れることについての話に転じると、にわかに顔が強張り初め、話を遮ろうとする人とも度々遭遇しました。
彼らの脳裏にあるのは(誇張はあるものの)前述したような、世の大峠か人生の大峠を思わせる、”恐怖の関門””神の裁きの場”といったものでは無いでしょうか…それはご多聞に漏れず私にも勿論ありました。
悪というものは、こうした善悪を超えたものが我々の現実世界、相対の次元に移行した時に顕現してきます。
個我と共に生まれたといってもいいです。
全くもって相対的なものを映し出し、我々の短絡的な物言いというものをよく物語っていると思います。
外国人、異教徒、国際秘密結社、はたまた隣人…枚挙にいとまなく人は、他者を悪であるかのような実体に見立てます。
中にはこの現実世界、現代文明そのものに嫌悪感を抱き、どっかの山奥、無人島、あるいは地球外!に移住したいという人も居ます。
自分が正しいと思っているからですね。でもこうしたことにも裏が有り、自分が常に正しい人はホントは自分は悪くてダメな人間だと思っているのです。
そうでなきゃ、正しい教え、スゴい教祖さん、スピ商人に従い、導いてもらうことないじゃないですか?
そして正しく権威あるものと結びついた途端、悪くてダメな人は”その教えを知らないまだ救われない人、違う事言う他人”にとって代わるのです。
そして自らの憎っくき悪、ダメさ加減にはフタがされ、他に向けての憎悪は強まるにつれて仮想サタンもより実体を持ったもののように強固になっていきます。
でも…もうお分かりのようにそれは幻想ですね。
何も覚醒体験のことなど持ちださなくてもいいです。なんで経験したことの無いことを恐れる必要が有るのでしょう?
(実は、これにはどうも複雑な要素が絡んでいると思われます。)
それとも…世にも恐ろしき神の裁きという神秘体験でもあるのでしたら、是非聞いてみたいものですね。
この罪意識から来る恐れというのは、もっと深い意識での自己が闇の中で無になってしまう事態が、個我というフィルターを通して伝わるものだと思います。個我というものに悪や罪が結びついていると意識下で根強く感じているのです。
それらはとてもネガティブなものに感じられますが、究極のネガティブな事とは自分が無くなってしまう事なんじゃないですか?
でも、ホントはポジもネガも善も悪も無いことなのです。それは自分が背負っているものだと錯覚しているのです。
勇気をもって、その意識下に押し隠しているものを認めてしまえば、消えてしまいます。
自分でやろうとしなくても、暗黒の魔王様~あなたにとって最も愛すべきもの~にお願いするのです。
愛なる照明に委ねるのです。
魔王様は”さあ、見なさい、認めなさい!”と促すのです。そこで裁きが有るのかどうか?自分で確かめてみたらいいです。
平和世界への近道は他者への悪の投影ゴッコを辞める事だと思います…。
暗い、悪い、ネガティブな生き方などサヨウナラ…
相も変わらず、スピ界隈では、明るくポジティブなフレーズがてんこ盛りという感じです。
でもね…私は何度でも言います! まずあなたを待ち構えているのは”闇”なのです!
闇の勢力によって、あなたは捉えられ、蹂躙され、全ての能力、学んできた幸福な教えもはく奪され、暗黒の魔王の前に突き出され、あなたがこれまで犯してきた罪という罪は白日の下に晒され、世にもオソロシイ裁きが待っている…
あなたはこの恐怖に耐えられるだろうか…死んだ方がマシなのだろうか…これが世の初めからの大陰謀なんです!
私は…”もう、何時死んだっていい!”と感じさせられました…あまりの幸福感で!
ここで闇と言っているのは、悪のことではありません。
思考を超えた、上よりの力に捉えられる状況のことで、”善悪の彼岸にある”という事を言ってます。
罪だとか裁きといったことでも、それまで問題を抱えている頭であれこれ、クヨクヨ考えてる事とは、違った様相で感じられます。
(こういう事は、しかしあくまで私の感じたことなので、人がどう感じるかはホントは知ったこっちゃないんですけど…)
この闇~無化させる力は、それ自体悪ではないですが、私は悪というものの成り立ちには深く関係が有ると思っています。
私は”神を信じている”という人を何人も知っています。彼らとの話でその奉じている信仰に関した話になると、とてもその相手は乗ってくるのですが、具体的にその神に直接触れることについての話に転じると、にわかに顔が強張り初め、話を遮ろうとする人とも度々遭遇しました。
彼らの脳裏にあるのは(誇張はあるものの)前述したような、世の大峠か人生の大峠を思わせる、”恐怖の関門””神の裁きの場”といったものでは無いでしょうか…それはご多聞に漏れず私にも勿論ありました。
悪というものは、こうした善悪を超えたものが我々の現実世界、相対の次元に移行した時に顕現してきます。
個我と共に生まれたといってもいいです。
全くもって相対的なものを映し出し、我々の短絡的な物言いというものをよく物語っていると思います。
外国人、異教徒、国際秘密結社、はたまた隣人…枚挙にいとまなく人は、他者を悪であるかのような実体に見立てます。
中にはこの現実世界、現代文明そのものに嫌悪感を抱き、どっかの山奥、無人島、あるいは地球外!に移住したいという人も居ます。
自分が正しいと思っているからですね。でもこうしたことにも裏が有り、自分が常に正しい人はホントは自分は悪くてダメな人間だと思っているのです。
そうでなきゃ、正しい教え、スゴい教祖さん、スピ商人に従い、導いてもらうことないじゃないですか?
そして正しく権威あるものと結びついた途端、悪くてダメな人は”その教えを知らないまだ救われない人、違う事言う他人”にとって代わるのです。
そして自らの憎っくき悪、ダメさ加減にはフタがされ、他に向けての憎悪は強まるにつれて仮想サタンもより実体を持ったもののように強固になっていきます。
でも…もうお分かりのようにそれは幻想ですね。
何も覚醒体験のことなど持ちださなくてもいいです。なんで経験したことの無いことを恐れる必要が有るのでしょう?
(実は、これにはどうも複雑な要素が絡んでいると思われます。)
それとも…世にも恐ろしき神の裁きという神秘体験でもあるのでしたら、是非聞いてみたいものですね。
この罪意識から来る恐れというのは、もっと深い意識での自己が闇の中で無になってしまう事態が、個我というフィルターを通して伝わるものだと思います。個我というものに悪や罪が結びついていると意識下で根強く感じているのです。
それらはとてもネガティブなものに感じられますが、究極のネガティブな事とは自分が無くなってしまう事なんじゃないですか?
でも、ホントはポジもネガも善も悪も無いことなのです。それは自分が背負っているものだと錯覚しているのです。
勇気をもって、その意識下に押し隠しているものを認めてしまえば、消えてしまいます。
自分でやろうとしなくても、暗黒の魔王様~あなたにとって最も愛すべきもの~にお願いするのです。
愛なる照明に委ねるのです。
魔王様は”さあ、見なさい、認めなさい!”と促すのです。そこで裁きが有るのかどうか?自分で確かめてみたらいいです。
平和世界への近道は他者への悪の投影ゴッコを辞める事だと思います…。