人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ただの人の目覚め

2015-12-11 16:37:24 | 覚醒
”人間は修行して、一歩一歩レベルを上げて、霊的進化して行けばやがて悟り、神人合一の境地に至れる…”

私が精神的な事に関心を抱き始めた当初は、このような先入観を持っていて信じて疑わなかったものです。
いや、それはほとんどの求道者とて同じだったのではないでしょうか?
そしてその界隈では、”苦節ン十年、ついに私は神サマのレベルに達しました…”と言う自称覚者がいっぱい存在していたようです。教師を名乗る人というのは大体がそういう人たちだったと思います。
我々凡人としては、”ほうそりゃあスゴイや…我々のとうてい及ばない超人だわ…”と舞台上のアイドルを見るように見上げてることしか出来なかったのです。
そして中には、”ヨーシ、それじゃあオレだって…”と”ウン、ウン、”と何処に導かれるのか知らないけど、自分で修行に励む人も現れ出たりしました。
現在からこれを思う時隔世の感がしてきます。なんだかんだと言っても”悟りなんて特別な事じゃないんですよ~”と謙虚な人徳者?も増えました。
今は、特別な信仰も修行もなくとも、普通の人が目覚めに預かってしまう時代なのです。
このことを特徴付けているものの一つとして恩寵としか言いようのない、我々の知覚、能力を超えたある種のハタラキが存在すること、などが挙げられるかと思います。
この事だけをとっても悟りとか覚醒(これが同じものなのか、違うものかはさておき)というものは、その個人のなにが、かにが優れているとか、能力といったものとは関係が無いという事が理解されるでしょう? この世に生きている限り、どこまでいってもただの人間はただの人間に過ぎないのです。ただその見た目の土台にはただでない、とてつもないものが息づいている…これが顕わになって来ているのが何かが変容するように感じさせているのでしょう。
この目覚めというものは、元来がそういう質のものなので、(これはちょっと言い表すのに微妙な事なのですが…)アリアリと直接的に実感するものでありながら、”全くもってこれは自分の事じゃない、自分の手のかからないところで起きている…”という相反するような実感も又有るものなのです。
おまけにその契機は大概はまず強烈な体験として訪れるのが普通なので、それが去ったら消えたように感じるのも常だと思います。
するとその嵐が過ぎ去るとこんな思いが過ってきます。
”あれは本当に目覚めたのかなあ…”と。ここに所謂覚醒者の分かれ道が存しているようです。
中には”本当の目覚め?”の印可のもののようなものを求め出す人も居ることでしょう。しかしそれは元来我々の有識を超えた領域で起きていることを有識に取り込もうというような試みです。人生の裏側のことを表側に置き換えようとすることです。
形なきものに形をもたらそう、捉えられないものを捉えよう…これがまさに現世の”この手にずっと握りめていなければ安心できない”人間的な処世の流儀に他なりません。
して結果は…その本来性は失うに至ります。これ正しく”これを取ろうとしたらこれを失い、手放せばこれを得る”という裏の流儀からズレてしまうのです。そしてとても覚者とは思えないような言動に走り出す人も見受けられますね。
まるで常に正しい覚者像を演じようとして隠れたオカシサまで顕わになってしまうようです。
日常を生きている自分が、所謂真我というか本来の自分そのものであると錯覚したりして、この二つのつなぎが上手く行かなくなるのです。
いや、そもそもそれをつなげようとする必要も無いものだと思います。やろうとしたって有識的な人間にできる事じゃないです。
限りある自分が悟りだとか目覚めだとかについて出しゃばる必要は無いのです。
必要な時には神人自らがただの人を通して語るでしょう。
最初から”つないでいるもの”個的な私と一なるもの、神的なものと人間的なものを結び合わせるもの”神人的なもの”に任せておけばいいのです。
恩寵もこのものによりもたらされ、事後の導きもこのものによるのです。
いつもこのものと共にあれば…寝ても覚めてもいいのです…。





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