”そのままでいい”、”あなたが変われば世界が変わる”…スピ界の標語みたいで耳にタコが出来そうですね。
でも、そのスリーワード? のうちのもう一つについても触れとかないと…
それが”今ここ”…”分かったよ!、もういい…”っていうあなた! ホントに分かったのですか?
”今っていつ?、ここってどこ?”
”そんなのない!”、”ハイ、正解!”というのは早合点です…正解なんてないですよ!
正解、真実を飽きもせずに追い求めて、堂々巡りしてるのが表側の世界の現状なのではないですか?
”今ここ”というのは、一連なりで表せるように、時間と空間が別々になっている事でも無く、そもそも特定できる限られた時間、空間も無いという事を言い表しているのでしょう。
”ここ”的な事については前回触れましたが、”今”というのはまあ、現在ですよね。
スピ界ではしばしば”今しかない”などと語られます。過去も未来も無いんだと…
これはニュアンス的な問題だと思いますが、こういう表現は誤解されかねないように感じます。
”過去も未来も無く、現在しかない”というのは、過去に捉われ、未来に捉われる事と同じようにやはり現在という限られた時間に捉われてしまう、ということなのではないでしょうか?
意識が変容すると、過去も未来も消えてしまう訳では無い、それらは”今”につながる、ということなのでしょう。
”今しかない”という事が強調される時、私は特に過去の否定と結び付けられているのを感じてなりません。
自分の過去の否定とは、取りも直さず自分自身の否定に他なりません。
私が実感したものは、過去の諸々の断片的な記憶(自意識で封印していたものも含め)が全て一つの焦点に結び合され、”今ここ”に蘇ってきた、と言う感じでした。
人間誰しも呪わしく、葬り去りたい過去を引きずっているものです。”忘れ去りたい”というのが人情というものです。
何がそのように狂おしく我々の精神を苛むのでしょうか?
それは”愛の不在”です。
その時、愛から切り離されていたから、ずっと心に傷を背負っていたのです。
しかし、今ここで無条件の愛が全身全霊に浸透されることにより、過去は変容されるのです。
自己にまつわる苦難に満ちたストーリーは、影に隠れていた真の監督、脚本家の登場で書き換えられるのです。
過去についてはこんな感じですが、未来は? ウーン、分からないです! 具体的に感じるのはいずれ歴史は見直されるどころでない、変容に見舞われるだろう…という事ですかね…(これって実は”世界の終わり”を意味するのかもしれませんけど)…闇に包まれた話は言えません…一寸先は闇です。不幸な人の過去よりよっぽど暗いです。 ただ過去が蘇ると”X”に包まれた未来も見えてきたりします。
アセンション的な話で、O年O月何が起こる、かにが起こるって…お分かりと思いますが、これは限られた時間の中で、時間を超えた世界の訪れについて言っていることなのです。その日、その時多分”地球は静止する”でしょうが、ずっと”時間なんてなかった”と非二元論者お得意の観方も出来る訳です。
私は意識の変容などといったことをここでも言ってます。
でも本当は愛の権化なしでは、何一つ起きたりしません。
”今ここに在る”とは、このものと共にあるという事です。そして過去も未来も同一線上のものとなります。
それは、探究や修行の結果得られるようなものじゃないのです。
勿論、それが契機となることも有るでしょうが、何時でも何処でもその契機は在ります。
今ここに…。
でも、そのスリーワード? のうちのもう一つについても触れとかないと…
それが”今ここ”…”分かったよ!、もういい…”っていうあなた! ホントに分かったのですか?
”今っていつ?、ここってどこ?”
”そんなのない!”、”ハイ、正解!”というのは早合点です…正解なんてないですよ!
正解、真実を飽きもせずに追い求めて、堂々巡りしてるのが表側の世界の現状なのではないですか?
”今ここ”というのは、一連なりで表せるように、時間と空間が別々になっている事でも無く、そもそも特定できる限られた時間、空間も無いという事を言い表しているのでしょう。
”ここ”的な事については前回触れましたが、”今”というのはまあ、現在ですよね。
スピ界ではしばしば”今しかない”などと語られます。過去も未来も無いんだと…
これはニュアンス的な問題だと思いますが、こういう表現は誤解されかねないように感じます。
”過去も未来も無く、現在しかない”というのは、過去に捉われ、未来に捉われる事と同じようにやはり現在という限られた時間に捉われてしまう、ということなのではないでしょうか?
意識が変容すると、過去も未来も消えてしまう訳では無い、それらは”今”につながる、ということなのでしょう。
”今しかない”という事が強調される時、私は特に過去の否定と結び付けられているのを感じてなりません。
自分の過去の否定とは、取りも直さず自分自身の否定に他なりません。
私が実感したものは、過去の諸々の断片的な記憶(自意識で封印していたものも含め)が全て一つの焦点に結び合され、”今ここ”に蘇ってきた、と言う感じでした。
人間誰しも呪わしく、葬り去りたい過去を引きずっているものです。”忘れ去りたい”というのが人情というものです。
何がそのように狂おしく我々の精神を苛むのでしょうか?
それは”愛の不在”です。
その時、愛から切り離されていたから、ずっと心に傷を背負っていたのです。
しかし、今ここで無条件の愛が全身全霊に浸透されることにより、過去は変容されるのです。
自己にまつわる苦難に満ちたストーリーは、影に隠れていた真の監督、脚本家の登場で書き換えられるのです。
過去についてはこんな感じですが、未来は? ウーン、分からないです! 具体的に感じるのはいずれ歴史は見直されるどころでない、変容に見舞われるだろう…という事ですかね…(これって実は”世界の終わり”を意味するのかもしれませんけど)…闇に包まれた話は言えません…一寸先は闇です。不幸な人の過去よりよっぽど暗いです。 ただ過去が蘇ると”X”に包まれた未来も見えてきたりします。
アセンション的な話で、O年O月何が起こる、かにが起こるって…お分かりと思いますが、これは限られた時間の中で、時間を超えた世界の訪れについて言っていることなのです。その日、その時多分”地球は静止する”でしょうが、ずっと”時間なんてなかった”と非二元論者お得意の観方も出来る訳です。
私は意識の変容などといったことをここでも言ってます。
でも本当は愛の権化なしでは、何一つ起きたりしません。
”今ここに在る”とは、このものと共にあるという事です。そして過去も未来も同一線上のものとなります。
それは、探究や修行の結果得られるようなものじゃないのです。
勿論、それが契機となることも有るでしょうが、何時でも何処でもその契機は在ります。
今ここに…。