人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

そのままでいい

2015-12-19 20:26:50 | スピリチュアル
私が初めて、人生の裏側を垣間見た場所というのは、大阪のど真ん中、実に忙しく、喧騒に満ちた駅前ビルの地下街でした。
全くと言っていいほど精神的、超俗的な場所とは程遠かったのです。
”その瞬間全てが光輝いて見えた…人々の内に神が息づいているのが感じられた…
その場所がどっかの高次元に移行してしまった…”
なんてことは全くありませんでしたよ!
高次元とか霊的進歩とか上昇志向の人が、想像を掻き立てるものは何も無いのです。
もっとも、私の周りは完全に透明なバリアのようなもので遮断されていたようで、周囲のことなど殆ど感知されて無かったのですが…
雑踏の喧騒など全く影響されることなく、人生のエアポケットに入っていたのです。
これ、全て自動的に起きていたことです。
自動的という事は、何も出来ない、しなくていい…つまり”そのままでいい”、ということです。
そのまま…ありのまま、ですね…。
昔”私はありのままでいいんだ…”とある人に言ったら、”そんな君、ありのまま、なんて言葉は軽はずみで言えるような事じゃないんだよ!”などと難クセをつけられたことが有るのですが、ありのままで居る事ってそんなに大変な事なんですか?
”今、私はありのままでないようだから、ありのままにしないと…”これでは絶対ありのままでなくなります!
ごくごくシンプルなことというのは、、ホントに考えたり、構えたりするのもバカらしいことなのに、そのまま、ありのままになる探究、修行してる人いるんでしょうか?
転んだら、転んだままがそのままだし、おバカになってたら、おバカなままがそのまま、ということ…他になり様がありません。
”要するに自動的になされるものの前では降参するしかない…”というのが、そのままという訳であり、その契機というものもありのままなんだということです。
そして、どこかの聖地、パワースポットに行ったり、瞑想センターで修行したからといって意識が目覚めるとは限りません。
(勿論、そういう場所へ行くのも価値有ることに違いないです)
これ、恩寵の光というものは、人がどこで何をしていようと捉えられる時は、捉えられてしまう、ということですね。
何処にも宗教的救いといった要素など感じられないような都会の雑踏、決して光の差さないような暗い場所…そこが聖なる場所となるかも知れないのです。ただそのままでありながら…
見えてる景色は何一つ変わらないかも知らない…しかし根本的に全く違う! 意識に光が灯されているのです。
何かを求め、忙しく機械のように歩いている行き交う人々、ずっと飽き飽きと見慣れている光景です。
でも私はその時ほど、それが強く血の通った有機体に感じられたことはありませんでした。
本当に聖なる場とは、それと程遠く感じられる場と全く別在しているものでも、その場が魔法のように光輝いてその場に変容してしまう事でもなく、そのままの場でありながら、聖なる生命が息づいている場ではないでしょうか?
それは上昇指向やピューリタン指向の、”善なるものは残され、悪なるものは淘汰される”といった偏った視方でなく、善も悪も、聖も俗も無い…トータル、全包括的にそのままになっているものなのです。
見えてる世界が変わるのでなく、それをどうにかしようとしなくても、自動的に意識が変わるのでそのように感じられるのです。
何かをやろう、何かになろう、というよりもそのままでいい…そのまま程リアルなものは無い…。









コメント
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