人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

キリスト、日本、イスラエル

2015-12-26 19:54:30 | 人生の裏側の図書室
内村鑑三先生は、”私は二つのJ、ジーザスと日本(ジャパン)を愛する”と言いました。
内村先生の無教会の流れを汲む、原始福音キリストの幕屋の創始者、手島郁郎先生はさしずめ”三つのJ”を愛してやまなかった人だったと言えるでしょう。手島先生の場合は、イエス・キリスト、日本、そしてイスラエル(ジューイッシュ)です。
手島先生とその原始福音運動とイスラエルとの関係については…
手島郁郎著「聖書の宗教とイスラエル」(ミルトス刊)
に詳しく紹介されています。(おそらく現在、手島先生のもので一般書店で扱っている唯一の本だと思います。)
元々無教会には、西欧化されたそれでない、日本人の血肉にうったえる福音理解というテーゼを掲げていたのですが、手島先生と小池辰雄先生は、そこから観念的信仰を突破し、聖霊による生命に満ちたキリストを提唱した訳ですが、両者に息づいていた日本的なものの心象には微妙な差異が見られます。
小池先生にあっては、どちらかと言うと日本精神に溶け込んだ仏教や老荘思想に観られるような、東洋的無の消息が伺えるのに対し、手島先生の場合は日本的と言うよりは日本民族的と言った方がいいように感じます。このうち私の具体的な血肉にうったえてくるのは、こちらの方なのですが、そこを強調すると、ともすれば相対観に捉われがちになるきらいが生じます。
そこに無的なものに包み込まれる事で角ばりが取れてくるように感じて、私にはどちらがどう、とは言えません。
我々は相対的な血肉を持って生きており、裏側では相対を超えたものに支えられているです。
両方あって日本的なものが生きてくるのではないでしょうか?…
手島先生は、さらに福音の根幹的なもの(福音の母体としてのユダヤ教)の追及、神の経綸に関した黙示的ヴィジョンからイスラエルのために祈り、交わるという、日本人キリスト者として特異とも言える生き方を示しました。
私の心象には、こうした先生の生き方に”和合”という響きをもった、いくつかの象徴的な図式が浮かび上がります。
それは、まず”ユダヤ教とキリスト教の和合”
私がこの本を読んだのは今年の夏だったのですが、実は長いこと誤解していたことが有りました。
それは手島先生に先立って、昭和初期の頃中田重治という、再臨運動で知られるホーリネス教会の牧師が、日本=ユダヤ同祖論を唱えるなどして、イスラエルとの交流をしていたのですが、てっきり先生はそれを踏襲しているものだと思い込んでいたのです。
しかし先生にはイスラエル伝道というか、ユダヤ教をキリスト教に改宗させるような目論見(キリスト再臨の条件としてユダヤ人の悔い改めが必要、と信じられていた)は無かったようです。その理念は純粋な分裂した聖書の民の回復に有ったと思います。
それどころかユダヤ教神秘主義ハシディズムなどから、旧約に根差しながら聖書を学び直そうという姿勢を持っておりました。
又逆に形骸化したハシディズムに聖霊の息吹を吹き込んで、活性化させようとしたりするのだから恐れ入ります。
二つ目は”キリスト教と日本的なものの和合”
先生の処女作「聖霊の愛」(東京キリスト聖書塾刊)に見るように、日本人である先生にとって古事記神話の世界こそ、主たる日本の旧約なのでした。この民族的基盤の上に生けるキリストの生命を接木して、大和民族の心を再興させること、これが先生の伝道の主眼だったのです。
さらにはここからこの本では、直接的な言及はないですが、”日本とユダヤの和合”という事にも導かれてくる、と思われます。
先生も又日本=ユダヤ同祖論者でしたが、この二つの和合というのは、古代史的な意味合いを超えて、未来における世界平和の和合の型でもあるということは、(真偽はともかく)ある筋の経綸の信奉者の心象には根強く刻印されていることです…。

私は時に、パレスチナ問題という火種を抱えた世界情勢の中で、相対的、政治的な事に触れざるを得ない、親ユダヤ的表明には素直に首肯できないところもありますが、ずっと先生の基調にあったものは次の言葉に伺えるものであり、これこそ民族、宗教を超えて普遍調和に導かれるものであると思います。

「私たちは人間イエスに信じるのではない。彼に受肉し、臨んだところの永遠の生けるキリストー今も生きて働き、苦しむ者の祈りにアリアリと答えたもうーに信じているのです。」
コメント
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