人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生きている教説

2015-12-09 13:16:04 | スピリチュアル?
”今日の仕事はなんかシビアそうだな…僕に務まるかなあ…失敗したらどうしよう…もう、プレッシャーで押しつぶされる~”
”昨日の失敗しちゃった件、こりゃあ、タダで済みそうにない…あのおっかない上司、ねちねちイヤミ課長、ああ顔が浮かぶ…こりゃあ減棒…いやクビ!…どうなる、危うし自分!”
こういう時は…
”私はいない…ただ起こることが起こるだけ…”何かヤバイことを背負いこまなければならない自分なんてないんですモンねえ~
何か起きることは起きるだろう…しかし…それでも地球は回る…
これは何かの信仰箇条のように、そう強く思い込もうとすると帰って逆効果ですね。
自分のあれこれネガティブな事に捉われている思いの奥で、シタシタと浸み込んでくるような内なる意識に委ねてみる…
ネガティブな思いを排除しようとなどしない…(こっちのほうがはるかにネガティブです!)
要するに起きても無い現実に余計な話(これがストーリーってことなの?)を盛らんでいいって事ですね。
で、こんな感じでイイカゲンに従事していたら、”どおってことねえや、ただの取り越し苦労じゃん!”で済んじゃうものですよね。
(これは実体験を交えた神経過敏、心配性の私のお話でした。)
こういう事というのは、何かのメソッドというより、人本来の防衛本能みたいに与えられているものじゃないかと思います。
内なる意識の魔法ですね。
意識的になることによって身に覚えるようになります。もっとも何時もそうなるかどうかは決まってはいません。マニュアルなんてのは無いですから…
パニクるときは、パニクるし…それも起こることが起こるだけ…
では逆に、喜ばしいことに浸っている時は…(私は昔から美しい夕日などを見てたら理由なしにそうなってしまうことがあります)
こういう時は私が世界の中心にいるみたいになります。”私はある”です。
これはそう思おうとしなくたってそうなります。こっちのほうが分かり易いです。
至極当たり前のことのように感じます。それがごく自然な状態だからでしょう。
折角、幸福感に預かっているのに”私はいない”ことにする理由なんてありますか?
何の問題も無いのにストーリーを無くす必要もありますか?
もっとも喜ばしいテラー、ライターにかかるとその脚本は勝手に変えられるものですが…
素直に喜んでいたらいいだけなのに…真理の探究のためならそこを超越しなければなりませんか?
私は自分でブログを書いててつくづく感じました。
私は真理を明らかにするために生きてる訳じゃないんだ…と。(これが有る意味探究の終わりってこと?)
生きることを味わう事の方がずっと意味が有る…というかそのように促されているのを感じます。
又、私は非二元論者でも二元論者でも何々教徒でもありません。
決まった定理、メソッドなどを押し立て、主張しようとしても、世界も自分自身もその通りには生きちゃくれません!
そうです! それは生きているものなのです!
あっちではこうなっているからって、こっちではそうなってるとは限らないのです。
この世の表側の流儀では、何かの信条、教説を設ける必要も有るかも知れません。
ことに商品ともなれば、目に見えるように形あるもののように見せなければならないようです。
でも裏側の”生きている教説”を欠いたら、決まったマニュアルが生の現場では役に立たないように、命の事態では綻びが生まれ、やがてただの命を欠いた看板になるだけです。
生きている教説は生きる事、生かされていることに直結しているのです。
一元とか二元とか二の三の言ってないで、今日も夕日がキレイですよ!…







コメント
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