人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

五井先生の表と裏

2015-12-28 16:23:38 | 人生の裏側の図書室
”物事には全て見える形があり、その奥、裏には見えないものが隠れ息づいている”ということは、本ブログの基調的なものですが、形あるものは相対的なものであり、時、所の制限を受け、時と共に盛衰といった変化を伴い、所変われば様相も変わるものであるのは言うまでもありません。
そしてその奥にあるものこそは、普遍、不変なものに通じていると言えるでしょう。
私には宗教というものほど、この事を如実に表しているものは無い、と思います。
五井昌久先生の名は、少しく宗教、スピに関心を持っている方なら知らない人はいないでしょう?
白光の五井先生と言ったら…”世界人類が平和でありますように…”の文句がすぐ連想されるように ”世界平和の祈り”の提唱者ですね。
この祈りは先生が言うには、宗教宗派を超越した祈りである、とのことです。
では果たして現実に白光会以外の宗派で、この祈りは唱えられているのでしょうか?
(いや、それどころか現在の白光会では、指導方針も変わってしまったようで、その看板であったこの祈りも蔑ろにされている傾向が有るようです。)
要するにもう巷では、この祈りは一教団に関わるものであり、五井先生の名と共にあるものだという事は認知されていると言わざるを得ないでしょう。
それでも、一部の五井先生派の人たちの中には、まるで何十年前から時間が止まってしまったみたいに、この祈りを初め、先生の教えを押し広めようとしている人も居ます。
人が何に価値を見出し、何を信じ、何を行じていくかは、全く自由だし、私がどう、こう言うべきことじゃありません。
ただ現実的に考えれば、祈りの同志が今後増えていく事はまずないでしょうね…
では全くの白光無教会?の私はというと、人数が多かろうと、少なかろうと私一人だけだろうと関係ありません!
五井先生という人は私にとっては、神…名称は何であれ、”見えざる導きと共にあること”を知らしめてくれるマスターなのです。
”常に思いを神に向けていると、いつの間にかスーッと神の中に入ってしまうんですよ!”
私が日ごろ言っていることというのは、イロイロ形を変えた、こうした言葉のバリエーションみたいなものです。
私自身何がどうなって、人生の裏側を垣間見てしまったかといったら、”こういうことだった…”と言わざるを得ません。
具体的にどんな祈り、修行をして来たかと言うんじゃないですけど…
そしてスーッと、どうなるか…全託してしまうのです。明け渡しです。
全託ということは、この教えだとかこの行とかこの教団が…といった捉われた思いを手放す、ということです。
”五井先生の教えは入門者向き…”なんて軽く見てたらトンデモありません。
何の宗教、スピだろうとそこへ導かれるものじゃないですか。
そして、こういうものこそ宗教宗派、宗派に関わろうと、関わるまいと、それらを超えたものなのではないですか!
廃れて行くものは廃れるに任せておけばいいのです。それが諸行無常というもの…
こういう事というのは、形を変えて千古の昔から人間の精神世界で息づいてきたものです。
何時の時代にも、どの宗教でもこういう事を伝えているのです。勿論どの教えでなければならない…という事ではありません。
そして何か困った時、苦難でニッチもサッチも行かなくなった時、神でもなんでも祈ればいいのです。
悟ったような人は、”自分以外のものなんかに助けてもらう必要無い、神は自分だ…”などと言うかも知れません。
そんなに今の世の中オメダタイのだろうか…
今、あらゆる人は、強がり、意地、利口ぶり、屁理屈を捨てて、ごちゃごちゃ言ってないでもっと素直になるべきだと思います。
そのうち、八方塞がりになったらどの道全託!…
”救いの無い悟りは無く、悟りの無い救いも無い…”こういう事も五井先生のあらゆる著書から垣間見ることが出来ます。
先生の著書はあまりに膨大で、どれか一冊…というのは決めにくいですが、まだ世界平和の祈りが生まれる以前に書かれたもので、基本的な事が述べられているものに「神と人間」があります。
あとは講話をまとめたシリーズは、どれも先生の口調などをそのまま捉えていて親しみやすいです。
「我を極める」「永遠のいのち」など…(いずれも白光出版)
”宗教なんて…”という色眼鏡を置いて読んでいくうち思わぬ気付きが有るかも知れません…。




コメント (4)
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