人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

精神的自治権

2015-12-06 13:24:27 | 宗教
私が学生の頃、入信していた宗教団体との関わりで、疑問がもたげてきたキッカケはその教団の分裂騒動でした。
これはこの世界ではよくある話で、その教祖亡き後の二代目を巡る争いで、それは法廷にまで持ち込まれて行きました。
その相対立することになる”別派”の信者とはつい数日前まで親しくしていたのです!
普通の心情を持った人間でいきなりこういう現状に立たされたなら、どう対処していいか分からなくなるものでしょう。
それでも幹部とか指導的立場の者は、そうした心情などお構いなしに、詳しい事情を説明するでもなく一方的に”今、我々は振るわれています…。神から試されているのです…。OO派は魔に魅入られているのです…決して近づいてはなりません! 迷ってはなりません! 正法はウチにしかないのです…”と取り囲み説法に明け暮れていました。
そして相手のことを悪し様に言う、切り札のような言葉といったら”あれには悪霊が憑いているんです!”というご託宣です!
さすがに私はこういった話を真に受けられなくなってきたのですが、かといって自分自身にも何かの確信がある訳でも無し、誰に相談していいかも分からず、宙ぶらりんの状態がしばらく続きました。
やがてもうその教団に関わるのがとてもおっくうになり、自派の敗訴(ブランドともいうべきそれまでの教団名は名乗れなくなった。これが極めて現実的なオチです)の知らせも聞くことなく辞めてしまいました。
この教団だけでも何十万という信者は”自立できない、子供”同然に扱われていたのです!
”自分で感じ、自分で考え、自分で判断する”多くの宗教、スピにハマる人というのはこういう当たり前の生き方が出来ないのです。
ヨーロッパ中世の暗黒時代でも無く、北朝鮮や中東の思想統制された社会でも無いのに、自分の人生を自分で決められない人が居るんです。
洗脳された人間の最も目を覚ますのが困難な理由は、自分が洗脳されていることに気が付かない事です。
とにかくその世界の外に身を置いて、当たり前の光景、おバカなテレビを見たりして(自分がやってることの方がよっぽどおバカなことだと気付くかもしれません)日常に触れてみる事ですね。
”他の教えに共感するものが有る、だけどウチの先生と違う事を言っている…ここはそれに触れてみていいかどうか講師の人に訊いてみよう…すると”何を君は迷っているんだ! 此処にしか救いは無いんだからやめなさい!”と一人前の人間に扱ってもらえません。
それどころか、”自分の考え”なんてのは自我想念、サタンに通じた心…となってくるのです。
これでは脳外科手術する以前にロボトミーじゃありませんか!
こっそり禁断の書物を漁っているような人に道が開けてくるのです。
私は一向専心、主一無適的な生き方というものを否定しません。私自身はそういう生き方はしてきませんでしたが、そういう縁の人も居る事でしょう。
ただロクスッポその人の気持ちもくみ取ろうともせず、判断を個人の自由に任せようとしないエライ人とは絶対オサラバです!
私はこういう管理、コントロールする側も、依存する側もどっちもどっちの需要と供給のもたれ合いと思っていますが、こういう世界で如何に理想の人間について語られようと、真の人間の姿など見出され得ないでしょう。
ことに”OOには悪霊が憑いている…”などと新宗教には多少なりとも巣食っている心霊をもって両断する他者批判…相手も自分も生身の人間とみなしてないようです。マトモに相手と向き合う気持ちも毛頭ないのです。
人を精神的寄生体と同一視する前にまず、自分自身が何かの教えに寄生していることに気付くべきなのです。
私が精神的な道に関心を抱きはじめた頃、周りにはかくも非人間的な世界が取り巻いていたのです。
現在、まだまだ玉石混交著しい感のあるスピ界…アコギなビジネスのことが色々取り沙汰されたりしましたが、率直に言って宗教にまつわるこのような様態に比べたらはるかに開けてきていると思います。いくらアンチたちと批判が交錯しても”悪霊が…”といった言葉はほとんど飛び交ったりしませんし…言ってることは非二ンゲン論的でも人間臭いところは感じられます…(突然組織立ってきて、オカシクなる可能性は無きにしも非ずか?)

徐々にではありますが、精神的自治権は与えられつつあると思います。
支配、依存のもたれ合いから解放された時、我々の新紀元が開かれるでしょう…








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