人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

逆説的絶対論

2015-12-22 17:58:42 | 哲学・思想
大学時代、白光の五井昌久先生を知った時、私は”ついに無上の真理に巡り合った!”と思ったものです。
それから数年後、キリストの無者、小池辰雄先生を知った時、”世の中にこんな宗教的世界の神髄を語る人が居たのか!”と驚嘆したものです。
さらに数年後、ラマナ・マハルシと出会って、”こんな究極の真理は無い!”とその時は探究も終わりそうな気がしたものです…。
今から考えると…そういう気持ちを心象にとどめていて、外部に吹聴しなくてホントに良かったな、と思います。(笑)
その度にそんな事言ってたら、その度に人を欺いていたことでしょう…
ただ自分の気持ちを偽らず、そのように素直に感じたのならそれはそれで、良しとした方がいいでしょうけど…
こういう事を飽きもせず繰り返しているうち、有ることに気が付かなかったら余程オメデタイ事だと思いますね。
”絶対の真理なんていくら探したってたどり着けない!”
それを掴んだと思った瞬間、スルリとザルのように、掴んだ手から抜け落ちてしまうものです。
私の場合などは、とにかく猫のように抜け目ない眼で、”どこかにもっと高い、深い心理が有るのに違いない…”と探りを怠りませんでした。
その一方では…内心は分かっていました。そうやって自分の外に真理を尋ねても、”賽の河原で石を積み上げるようなものなのだ…”と。
絶対だの究極だのって言葉は、この相対現実にあってうかつに使うものでは無いですね。
それでも私はあえて、”絶対なるものはあなたの内にある”などと言ったりします。
(”内なる…”という言い方もあやふやなものですが…)
これは、宗教世界などで飛び交う、短絡的な絶対神、絶対的真理といった、その実相対性の強い言い方に対する反語、という意味合いを込めているのです。
この絶対という意味は、その前ではもう、お手上げになってしまう、それに捉えられてしまえば、そうなるより選択の余地が無い…という言葉で言い表せないものを表現しています。
それは掴もうとしても絶対出来ないものです。
”この宗教がホンモノらしい、気に入ったから入信してみよう…信仰してみよう…”と随意で決められるものではない、ということです。
この意味での絶対との出会いから開示される世界では、逆説的ですが、絶対とか無上というものはどこにもありません。(言ってることはムチャクチャなんですが)
前述の私の人生の教師たちとの出会いで”これぞ、絶対的なものだ!”と感じたものが至る所にある…しかもそれが余計なものの無いエッセンスばかりという感じで、その空気の中に浸っている…どの先生、この教えと比較されるものは何も無いのです。
そもそも形ある人物、教えといった実体有るものなどどこにもありません。
見える実体をあるものとして、絶対視するところに、救いようのない相対地獄を現出してしまうことになるのです。
形あるものというのは、それ自体ではどこまでも相対以上のものではないのです。
ただ、その形あるものが媒体となって、この内なる絶対的なものとつながることはあるでしょう。
その場合、常に煙突のように上に向かって開かれたスペースを作っておく必要が有ります。
また、相対的なものを絶対視するという愚かしさに気づいたら自然とフタは開かれていくものです。
前述した、私は内心分かっていた、というのはしばしば”声なき声”から促しを受けていたからだと思います。
ある時、あることから本当にどんな宗教、教えも手に付かなくなってしまった事が有りました。
その時久しぶりに声なき声からのラブ・コール?を受けた思いがしました。
”これでやっとお前とサシで付き合えるな”と…









コメント
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