私は神的なもの、現臨に捉えられるたびに、"これが全人類に及ぶことになれば、直ちに神の国が実現するだろう..."との感慨がよぎります。
我々の心が神に向けて開かれることは、実に世界平和につながることであり、又個々の内的覚醒にもつながることでもあります。
何か内側からそうしたことを促進している本願のようなものを感じてきます。
しかし...そこにはそのように、本からの神的なハタラキがあるのであって、我々がその主に取って代わることは出来ないでしょう。
神はそれらの実現のための道具なんかではありません。神をダシに使うようなことは、本末転倒につながります。
多くの宗教では、そこで重きに置かれているのは、その宗祖であり、教えであり、神はそれを飾りたてる添え物扱いにされているのではありませんか?
神はその宗団主導の在り方に利用されている如くなのです。
神を利用しようとすると、得てして我々の方が神と別なるものに利用、操作されるに至るでしょう。
その別なる神とは思念。神そのものから切り離されることにより、神に取って代わって思凝神が支配し始めるのです。
例えば、本来世界平和の実現のために、大乗的、普遍的な理念の下に生まれた宗教も、"この教え以外に無いi"といった独善的な思いに囚われたり、どこにも確証が無く、それを信じ込むことでしか従うことの出来ない、イロイロなオカルト教説と結び付いて、カルト宗教に貶められたりしているのです。
"それに従うことで、完全覚醒することが出来る..."などと寝言みたいなこと言ってますが、その思凝を手放さない限り、目覚めることは無いでしょう。
私はこういう反面教師のことを見聞するにつけ、本来の在り方に立ち返ることを願わずにおれません。
五井先生が常に言っていたのは、諸々の思いは神にお返しする、神的なものの中に入れてしまうということ...そうすると、いつの間にか思いを超えたものに与れるということだったはずで、そのための方便として「世界平和の祈り」というものがあったのでしょう。
これはしかし、それが歪められ、本来性から外れてしまうのも、方便というものー宗教団体の形を借りること自体がそうでしょうーの宿命なのかなとも思わされます。
私に示されるのはとにかく、OOのための祈りでも、OOのための行でも、教えでも無いi
世界平和も真我の実現も神と切り離されてはあり得ない...神のものは神に帰る...人は皆神に帰る...
神自体なるものに与る...これこそが我々の本からの願いでは無いでしょうか?
そこには、人間が居て、神とのつながりが出来て、願ったことが実現して行くという、二段、三段構えというものはありません。そのもの自体に即したものなので、そのものと別に目的化されることがありません。
何が神なのかは、人によって違うもの...
神と呼ばれなくとも、最愛のものは誰しも分かるはずです。誰も他人のマネは出来ないし、支配し、従うことなど出来ません。
何が神なのかは、あなた自身に尋ねるしかありません。
それは全く他の追従を許さない、普遍的にして一なるものなのです。
至極個人的なことが実に途方もないことなのでしょう...。
我々の心が神に向けて開かれることは、実に世界平和につながることであり、又個々の内的覚醒にもつながることでもあります。
何か内側からそうしたことを促進している本願のようなものを感じてきます。
しかし...そこにはそのように、本からの神的なハタラキがあるのであって、我々がその主に取って代わることは出来ないでしょう。
神はそれらの実現のための道具なんかではありません。神をダシに使うようなことは、本末転倒につながります。
多くの宗教では、そこで重きに置かれているのは、その宗祖であり、教えであり、神はそれを飾りたてる添え物扱いにされているのではありませんか?
神はその宗団主導の在り方に利用されている如くなのです。
神を利用しようとすると、得てして我々の方が神と別なるものに利用、操作されるに至るでしょう。
その別なる神とは思念。神そのものから切り離されることにより、神に取って代わって思凝神が支配し始めるのです。
例えば、本来世界平和の実現のために、大乗的、普遍的な理念の下に生まれた宗教も、"この教え以外に無いi"といった独善的な思いに囚われたり、どこにも確証が無く、それを信じ込むことでしか従うことの出来ない、イロイロなオカルト教説と結び付いて、カルト宗教に貶められたりしているのです。
"それに従うことで、完全覚醒することが出来る..."などと寝言みたいなこと言ってますが、その思凝を手放さない限り、目覚めることは無いでしょう。
私はこういう反面教師のことを見聞するにつけ、本来の在り方に立ち返ることを願わずにおれません。
五井先生が常に言っていたのは、諸々の思いは神にお返しする、神的なものの中に入れてしまうということ...そうすると、いつの間にか思いを超えたものに与れるということだったはずで、そのための方便として「世界平和の祈り」というものがあったのでしょう。
これはしかし、それが歪められ、本来性から外れてしまうのも、方便というものー宗教団体の形を借りること自体がそうでしょうーの宿命なのかなとも思わされます。
私に示されるのはとにかく、OOのための祈りでも、OOのための行でも、教えでも無いi
世界平和も真我の実現も神と切り離されてはあり得ない...神のものは神に帰る...人は皆神に帰る...
神自体なるものに与る...これこそが我々の本からの願いでは無いでしょうか?
そこには、人間が居て、神とのつながりが出来て、願ったことが実現して行くという、二段、三段構えというものはありません。そのもの自体に即したものなので、そのものと別に目的化されることがありません。
何が神なのかは、人によって違うもの...
神と呼ばれなくとも、最愛のものは誰しも分かるはずです。誰も他人のマネは出来ないし、支配し、従うことなど出来ません。
何が神なのかは、あなた自身に尋ねるしかありません。
それは全く他の追従を許さない、普遍的にして一なるものなのです。
至極個人的なことが実に途方もないことなのでしょう...。