人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

理学では足りない

2019-01-27 11:31:43 | 現臨、ハタラキ
"思考、マインドを超える"、ということは、何も考えることも、為すことも出来ないということであり、それは事実上"任せる、委ねる、手放す"といったことと同じことを言っています。
だから、何かを得ようとしたりすることは勿論のこと、"任そう、委ねよう、手放さなければならない"などと意志的に思い図っていることは、実にズレた在り方という他ありません。やって出来るんならやったんさいi
実際のところ、思考を超えるというステージに無ければ、全託なんてことは起きてこない訳です。
もっとも、こんな状態がずっと続いていたら、命がいくらあっても足りない感じがしますけども...
又、宇宙とか全体的なものに任せるとか、平然と言っている向きもあるようですが、誰が何にどう任せられるというのでしょうか?
宇宙とか全体とか、抽象的に思い描く(ここでもう思い描かれているのです)ことしか出来ないものに、"任せる、委ねる、手放す"何てことは起こり得ないのです。
これは例えば、落雷の如く、思いを超えたものの一撃にあって起こることなのです。
宇宙的、抽象的な事態というよりも、極めて具体的、局所的なことと言ってもいいでしょう。
これはすべてが静止した状態では起こり得ない、ある力学的的なもの、エネルギー交換が行われているということなのです。
とはいえ、それは全く上よりの力による一方的な、有無を言わせない事態ということも出来ません。
実にシビレル話(本当に身も心もシビレルことなんですけども)ですが、落雷を受ける(ヘンな例えですが)には、周りに何も無い、だだっ広いグラウンドかなんかで、ポツンと突っ立ってたら、受ける可能性は高いですね。
これは被体が稲妻を惹き付けているとも言えるのです。そこには相関関係があるのです。
こちらに、惹き付けられるものがあるからこそ起こり得ることなのです。上からも、下からも一つになろうとするハタラキがあるのです。
しかし、そういう説明で(かなりウソっぽいですが)、ちっとは科学的に何か分かったような気もして来ますが、これだけでは全く満足出来ません。少なくとも私には。
それにはある力学的なものがハタライているには違いない...しかし、それは理学的なものを全く超えていることなのです。"理屈でない"とはそういうことでしょう。
何がこちらにあの甘美な一撃に赴かせるかというと、"愛"という他ありません。
そこには親子の愛にも似た人格的結び付きも強く感じられる。
それも又、思いを超えたハタラキの内にあることかもしれません。しかし、これは理知を超えていることなのです。
まあ、これは最初からずっと、そういうことも、ああいうことも思いを超えたものなんだ、と言い続けていることの繰り返しなのですが...

故.エンライトさんは"すべてを任せるということには、喜びも感謝も無い"という意味のことを書いておられますが、究極的なことは分かりませんが(氏はおそらくその辺のことに言及しているのでしょう)、そんなことは多分無いでしょう。考えることは出来ないけど、通常思われているような感性ではないですが、感じることは出来ます。いや"そう感じさせられている"と言うべきでしょう。
これはあくまで私が感じさせられたことを言っているまでで、あなたがホントのことを知りたければ、あなた自身が確かめてみることです。
どうやってかは分からないですが...あなたの最愛なるものなら、そっと教えてくれる...かもしれない。



コメント
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