「雲さえ見えれば、たとえ独房でも結構楽しく暮らせるのではないか、最近はそんな気がしてくる」
「セーヌを見ていると、あくせくとした気持ちがなくなる。物事にはすべて決まった動きがある。それを見つけ、それに従うこと、それが真の幸福というものではないか」
(辻邦生「生きて愛するために」/中公文庫)
ネットで悟り系のブログなどを覗いてみる...
「幸福と感じたり、不幸と感じたりする自分なんていないんです。すべてはストーリーなんです...」
ああ、もう息が詰まりそう...誰が誰にものを言っているのか...自分というものから離れようとしているようで、かえってそこには"自分が、自分が..."という思いに取り巻かれそうに感じるのは、私だけだろうか?
早くここから脱したい(最初から訪問すんなi)...マトモな文章に触れたいi
と、こんな時、息苦しい空気の中で、すーっと心地好い風が吹いてきたような、爽快さを覚える文章に出会いました。
作家の故.辻邦生さんのエッセイ集。
読書家を自認する私ですが、文学には疎く、この方の小説は一度も読んだことはありません。
私の青春時代(70年代頃)にはよく聞くお名前でしたが、この所謂近代文学の時代(文学者書生の時代というべきか)と当世流行の文学との中間の世代と言っていい文学は、今では過去のものになってしまったのか、この作家の作品さえも品切れが多く、容易に入手出来ないのが現状のようです。私はこの作品を求めてほぼ一年間探し続けたのです。
それにしても、著者自ら「子供の頃から自分はごく平均的な、目立たない存在であると、常々思っていた...とにかく物事のバランスを大事にし、過激なことは性に合わない」と述べているように、全く無駄のない、クセのない、模範的、標準的な文章です。
オルケスタ.ティピカ(標準的という意味).ビクトルのタンゴを聴いているようです(何のこっちゃ分からないか?)
標準的ということは、決して可もなく、不可もないということではありません。卓越しているのですi 誰も真似など出来ませんi
何処にでもあるようなものが、実に得難いものなのですi
そう、ここに描かれいるのは、ありきたりの人生の諸相の、ありきたりでない著者の目から見たスケッチなのです。
特に、著者が雲や川に惹かれるところに共感を覚えましたが、何か書かれた、表された文章の向こうにあるものに、惹き付けられているようにも感じていました。
抜け目のないネコのような私は実は...その秘密が那辺にあるのかは、事前に掴んでいました。一体何処に姿を現すのだろう...
そうか...それは最後に顔を見せました。著者は敢えて"啓示"という言葉を使っていますが、若い頃ギリシアのパルテノン宮殿、セーヌ川のある橋の上、国立図書館でのリルケの詩の展示においてと三回に及ぶ、思いがけなく起こった、ある種の意識の変容の模様を綴っているのです。
各々の啓示に"この地上を包んでいる絶対一者的存在"、"森羅万象は私"、"一つのものの中にすべてが映し出されている"ことを示されたそうです。
これあるが故に、あのありきたりの風景が一際輝いて見える。そしてその内奥を開示されたものは、ありのままの日常を通して、雲間の隙間から差し込む光のように、川面に映し出される光の反照のように姿を見せるのでしょう。
これがバランス、調和というものなのでしょうか?
著者が文学活動の根拠を求めて遍歴していた時に与ったという、これらの啓示からすすむべき方向は定まったとのことです。
今年は辻邦生さんの他のエッセイ、そして小説をカバンに入れる機会が増えそうだ...
「セーヌを見ていると、あくせくとした気持ちがなくなる。物事にはすべて決まった動きがある。それを見つけ、それに従うこと、それが真の幸福というものではないか」
(辻邦生「生きて愛するために」/中公文庫)
ネットで悟り系のブログなどを覗いてみる...
「幸福と感じたり、不幸と感じたりする自分なんていないんです。すべてはストーリーなんです...」
ああ、もう息が詰まりそう...誰が誰にものを言っているのか...自分というものから離れようとしているようで、かえってそこには"自分が、自分が..."という思いに取り巻かれそうに感じるのは、私だけだろうか?
早くここから脱したい(最初から訪問すんなi)...マトモな文章に触れたいi
と、こんな時、息苦しい空気の中で、すーっと心地好い風が吹いてきたような、爽快さを覚える文章に出会いました。
作家の故.辻邦生さんのエッセイ集。
読書家を自認する私ですが、文学には疎く、この方の小説は一度も読んだことはありません。
私の青春時代(70年代頃)にはよく聞くお名前でしたが、この所謂近代文学の時代(文学者書生の時代というべきか)と当世流行の文学との中間の世代と言っていい文学は、今では過去のものになってしまったのか、この作家の作品さえも品切れが多く、容易に入手出来ないのが現状のようです。私はこの作品を求めてほぼ一年間探し続けたのです。
それにしても、著者自ら「子供の頃から自分はごく平均的な、目立たない存在であると、常々思っていた...とにかく物事のバランスを大事にし、過激なことは性に合わない」と述べているように、全く無駄のない、クセのない、模範的、標準的な文章です。
オルケスタ.ティピカ(標準的という意味).ビクトルのタンゴを聴いているようです(何のこっちゃ分からないか?)
標準的ということは、決して可もなく、不可もないということではありません。卓越しているのですi 誰も真似など出来ませんi
何処にでもあるようなものが、実に得難いものなのですi
そう、ここに描かれいるのは、ありきたりの人生の諸相の、ありきたりでない著者の目から見たスケッチなのです。
特に、著者が雲や川に惹かれるところに共感を覚えましたが、何か書かれた、表された文章の向こうにあるものに、惹き付けられているようにも感じていました。
抜け目のないネコのような私は実は...その秘密が那辺にあるのかは、事前に掴んでいました。一体何処に姿を現すのだろう...
そうか...それは最後に顔を見せました。著者は敢えて"啓示"という言葉を使っていますが、若い頃ギリシアのパルテノン宮殿、セーヌ川のある橋の上、国立図書館でのリルケの詩の展示においてと三回に及ぶ、思いがけなく起こった、ある種の意識の変容の模様を綴っているのです。
各々の啓示に"この地上を包んでいる絶対一者的存在"、"森羅万象は私"、"一つのものの中にすべてが映し出されている"ことを示されたそうです。
これあるが故に、あのありきたりの風景が一際輝いて見える。そしてその内奥を開示されたものは、ありのままの日常を通して、雲間の隙間から差し込む光のように、川面に映し出される光の反照のように姿を見せるのでしょう。
これがバランス、調和というものなのでしょうか?
著者が文学活動の根拠を求めて遍歴していた時に与ったという、これらの啓示からすすむべき方向は定まったとのことです。
今年は辻邦生さんの他のエッセイ、そして小説をカバンに入れる機会が増えそうだ...