毎度言っていることですが、"神的なものに意識が向いたら、パッと現臨に包まれてしまう"と、人が聞いたら"何だ、そりゃ?"としか感じないであろうようなことですが、それは私が特別な修業をして得たものでも、そういう特殊能力を持っているという訳でも無いのです。
これは、まず言わねばならないことは、こちらの何かではなく、あちらからこちらに臨んでくるということなのです。観方、感じ方を変えれば、自分の内から現れ出てくる、ということでもあるでしょう。
どちらにせよ、それは全く持ってこちらの思議を超えていることなのです。
思いを超えたものに与るということ...とても肝心なことは、それは自分から超えようとすることとは違うのです。
自分自身のことを振り返ってみても、自分からはそう意志的に試みようとしても、全くその術を見い出だすことは不可能だったのです。
もっとも、ハナっからそういう風には心が赴くことも無かったのですが...いつも思いがガンジガラメ状態に陥ったりするので、到底そんなことを望んでも、立ち行かなくなるのは目に見えていたのです。
私が少しく求道を始めた頃、巷には"こうすれば自己を超えることが出来ます..."てな方法論を記した本などが色々出回っておりましたが、全く関心がそちらに向きません。
私の心が動かされるのは例えば、"神の恩寵が降ると、自ずと平安に導かれる"というようなことなのです。
こういう内容のものを読んだり、聞いたりしているだけで、もう嬉しくてジッとしていられなくなるほどでした。ただのお話とはもう、思えなく感じてきました。"こういうことを私はずっと望んでいたのだ!"
こう書いているうち、感じてこないでしょうか?...これは"意識が向いたら..."という摩訶不思議な事態の一端を記したまでです。
"んなこたあ、全く何てえこたないi"と思って、スルーされるでしょうか?
"面白そうなお話ではあるが、現実には..."しかーし...少しくそのように言い表されているものに、アレコレ考えるでなしに、"意識的"になってみる...言い方を変えると、余計な判断を交えず、その自分が感じたことを味わい、受け入れてみるのです。
この世の現実は、"あーだの、こーだの"お話からお話に移ってばかりの堂々巡りでテンデお話になりません。
本当の現実がそこに臨めばー"現臨"...すべてのお話は終わるでしょう。
この意識的になることこそが、ただのお話で終わるか、一歩裏側に踏み込むか、どうかの分岐点なのです。
私の場合、長いことこういうことに無自覚でいたのですが、思い返せばそう言われなくともそうなっていたのでした。それが高じて多分摩訶不思議なことになってしまったようなのです。
何にせよ、これは思議を超えたことと言う他ありません。
このような事態のことについては、自分がどう精神的に進歩するかとか、どういう境地に到達するかどうかなど、全く思議の外のことなのです。
只々、その現臨してくるものに、不断に帰依、帰入するのみです。
自分が自分を超えたものになるのか、真我実現するか、究極の境地に至るのかどうかなど知らないi どうでもよいi 何で、自己をかく在らしめているものを置いて、何かに導かれることなどがあろうか?
ただ、この帰依、帰入のうちに、そこから益々顕わになるものと共に、私は益々深められ、より自己に目覚まされて行くのを覚えるのみです。
これは、まず言わねばならないことは、こちらの何かではなく、あちらからこちらに臨んでくるということなのです。観方、感じ方を変えれば、自分の内から現れ出てくる、ということでもあるでしょう。
どちらにせよ、それは全く持ってこちらの思議を超えていることなのです。
思いを超えたものに与るということ...とても肝心なことは、それは自分から超えようとすることとは違うのです。
自分自身のことを振り返ってみても、自分からはそう意志的に試みようとしても、全くその術を見い出だすことは不可能だったのです。
もっとも、ハナっからそういう風には心が赴くことも無かったのですが...いつも思いがガンジガラメ状態に陥ったりするので、到底そんなことを望んでも、立ち行かなくなるのは目に見えていたのです。
私が少しく求道を始めた頃、巷には"こうすれば自己を超えることが出来ます..."てな方法論を記した本などが色々出回っておりましたが、全く関心がそちらに向きません。
私の心が動かされるのは例えば、"神の恩寵が降ると、自ずと平安に導かれる"というようなことなのです。
こういう内容のものを読んだり、聞いたりしているだけで、もう嬉しくてジッとしていられなくなるほどでした。ただのお話とはもう、思えなく感じてきました。"こういうことを私はずっと望んでいたのだ!"
こう書いているうち、感じてこないでしょうか?...これは"意識が向いたら..."という摩訶不思議な事態の一端を記したまでです。
"んなこたあ、全く何てえこたないi"と思って、スルーされるでしょうか?
"面白そうなお話ではあるが、現実には..."しかーし...少しくそのように言い表されているものに、アレコレ考えるでなしに、"意識的"になってみる...言い方を変えると、余計な判断を交えず、その自分が感じたことを味わい、受け入れてみるのです。
この世の現実は、"あーだの、こーだの"お話からお話に移ってばかりの堂々巡りでテンデお話になりません。
本当の現実がそこに臨めばー"現臨"...すべてのお話は終わるでしょう。
この意識的になることこそが、ただのお話で終わるか、一歩裏側に踏み込むか、どうかの分岐点なのです。
私の場合、長いことこういうことに無自覚でいたのですが、思い返せばそう言われなくともそうなっていたのでした。それが高じて多分摩訶不思議なことになってしまったようなのです。
何にせよ、これは思議を超えたことと言う他ありません。
このような事態のことについては、自分がどう精神的に進歩するかとか、どういう境地に到達するかどうかなど、全く思議の外のことなのです。
只々、その現臨してくるものに、不断に帰依、帰入するのみです。
自分が自分を超えたものになるのか、真我実現するか、究極の境地に至るのかどうかなど知らないi どうでもよいi 何で、自己をかく在らしめているものを置いて、何かに導かれることなどがあろうか?
ただ、この帰依、帰入のうちに、そこから益々顕わになるものと共に、私は益々深められ、より自己に目覚まされて行くのを覚えるのみです。