人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

終わりなき戦いに終止符をi

2019-01-20 00:31:21 | スピリチュアル
あれれ? 昨日、"自分で終わりに出来ないんじゃないか?"、何て書いちゃったからか、あれほど立て続けに投稿されていたのが、更新がほとんど止まっちゃった...

多分私の記事を読んで下さってることだろうから、一寸批判的なこと書いてしまったので、気分を害されちゃったのでしょうか?
この方は、いつも私のブログに好意的なコメントを寄せてくれていたのに、私ときたら...
生き方はご自分で決められるだろうから、全く余計なこと言ってるに過ぎないのだろうけど、私は一寸この方のことを案じたい思いがあったのです。何か記事を読んでいてツラくなってしまって...
そして、多分ご自身も"これで終わりにしたい"という気持ちもあるように感じられて(何回も"これで最後の..."と書いてて、その都度騙されたi)、あんなことも書いてみたくなったのです。

私は何度も覚醒体験などは、神的なものと共にあるもの(これはあくまで私なりの表現)で、そこから離れて所謂"悟りゲーム"みたいになって一人歩きしてしまうことへの危惧について書いてきました。
それは本来そこで一旦引っ込められるはず(これが正にその事象の根幹的なものではないでしょうか)の自己性(敢えてこの界隈に、その言葉から淀んだ空気のようなものを作り出している、"自我"という言い方はしたくない)が前面に出るばかりで、自己を自ら袋小路のようなところへと追いやり、より強固になってしまうか、虚無的な世界へと消し去ってしまうことにもなりかねない、ということです。
この傾向は、理に片寄るところに現れるようです。
私が"神的なものと共にある"とか"愛の内にある"とか言っていることは、行き場の無いどん詰まりに、逃げ道としての通路が開かれるようなことです。重ねてこれが、行き着くところの無い、がんじがらめの自己の閉塞状態からの解放という、この事象の本質的なものと感じています。
この方は以前(と言ってもついこないだのことですが)、"愛"について書かれていました。
あまりそういうものは重きに置かないみたいに感じられましたが(勿論この事自体に良し悪しはありません)、それは人間社会の中で取り交わされているもので、本源的な愛の存在については疑問に思われているようでした。
私自身は、これを感じざるを得ませんi 私はこれを知るために生まれてきたとも思っています。これ無くして人間が考えるすべての愛というものは成立しないでしょう。これとつながらない愛は別の様態に変質するだろうと思います。
そしてこれにより終わりなき戦いに終止符が打たれるのですi
愛というと、自分と別の対象があって成立するものだと、とにかくこの世界ではそういうものしか教わってきてません。Aという存在とBという存在とがあって、愛が生まれるものだと...私はむしろ愛というものが先にあって、両者は結び付くものと理解しています。
では単独者には愛は生まれないのか? これは自己の内なるものに意識が向かえば自明に分かりますi これは所謂"自己愛"とは違いますよ。
そして愛は、理知といったものよりも本質的なものかと思います。それは理屈、意味付けを超えているものだから...
しかし、この方も何か仄めかしているように、愛と理知というものは、決して切り離されたものではありません。
(とにかく、我々はこの世界では愛とか情動に関したものと理知的なものは別々に表されるものとしか、教わってないのですが、例えば事の道理に従うということに、如何に愛の発露というものが、その根本的な心の動きに息づいていることでしょう)
これが本源的な愛の側面であり、というかそもそも本源的なものというのは、すべてがそうなっていることかと思います。
あまり愛だか知だか分からないことを、言っててもしょうがないので止めますが...
どうかブログは続けて欲しいです。少しお休みになるのも一考かと思いますが...
勿論それはあなた自身が決めることです。(何度もあなたからは"一致するところがある"とのコメントを頂戴しましたが、確かに理に傾き勝ちなところを一寸めくってみると、合わせ鏡みたいなそんな感じがしてきます)

お気に触ることの数々申し訳ありません。



コメント (6)
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