人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私というものは他者である

2019-01-12 11:54:08 | 現臨、ハタラキ
「自分を眺めるなら、自分を知ることは出来ないということは確かです。自分にこだわり、自分に屈み込むことは、真の私たちではない対象、既成の存在の中に私たちを固定することだからです」
「無限の境界のない他者。ランボーがそれと知らずに"私というものは他者である"と名指しした方。これは、人間の言葉の中で最も偉大で最も美しい、最も深く、最も汲み尽くし得ない言葉です」(モーリス.ズンデル「慎ましき現存」)

ある人の書き物などで、その中心となる部分として述べられるものは、大体においてその序、最初の文章に表されるものです。
私はこのブログを始めたその時、確か深く考えもせずに、"何でもいいから一寸気の利いた文章でも書いときゃよかろう..."という軽い気持ちで書き始めたのです。
何しろ、どういうコンセプトで書いていこうか、ということも定まっていなかった状態でしたから...
だけど...私はうっすらと前方に雲のように立ち込めている、あるものに導かれているような感じも既に覚えていました。
自分のプロフィールみたいなことを書こうとしていたのですが、これが何も思い付かないのです。
それが..."自分の人生ってのは、このチッポケな私の思いや行いの集積で成り立ってる訳じゃ無い..."ということが電撃的に閃いて、ああいう文章になったのです。
そうです。私は、スイス系フランス人の神秘家モーリス.ズンデルが霊感を受けたという、フランスのあらくれ詩人ランボーがそれと知らずに書いていた、他者として現臨する"私"に、それと知らずに導かれていたのです。
自分のことをどんなに見つめ、観察しても、ロクでもない思いやガタイや"やっちまったこと"ばかりしか見えてこず、自己嫌悪に陥り、ますます自分のことが分からなくなりそうです。
本当に自己観察されるには、自己を超えた他者性から照らされなければ、どこまでいっても自己の限界内にとどまり続けるだけでしょう
非二元スピなどで、いくら"私はいない"と信じ、思い込もうとしたって、自己を超えたものに意識が明け渡されない限り、そう思っているのは、まさに思われた私なのです。
この私という他者なる現臨からの"照明"ということも、私はそうと知らずにずっと受けていたもので、このブログを書いていることでその事に気付かされたのです。
自分で自分を分かろうとしても、かようにダメさ加減を思い知らされるばかりです。
すると、どっかからか、声が聞こえてくる..."お前はそのままでいいのかあ~、ダメだろう~、変わらなきゃあ~"
自分で自分を律しようとし、変わろうとし、思った通りにならないところから、いよいよ自意識が強まってきて神経症じみてきたりします。
変わろうとしなくたって、厳しい冬から自ずと春は巡って来るように変わるのです。自覚しようが、しまいが...
私は別に自分を変えようと思ってブログを書いてる訳じゃありません。
しかし...大それたことじゃないけど、どんどん気付きが与えられて、見方、感じ方は勝手に変わってしまいました。
自分をどうこうするんじゃなくて、ただ現臨を受け入れるというだけで...
これは私のように自意識の強い人間にとっては、"コペルニクスもまっつあお!"、ともいうべき福音でなくて何であろうi
自分の人生でも世界でも歴史でも、この視点が与えられることにより、思われた以上の輝きを放つものになるでしょう。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする