とかく宗教やスピに走ることは、現実逃避ということに結びつけられ、批判がましく言われたりします。
私の一寸した知り合いのある宗教の信者でも、いつもその格好の逃げ場である、イロイロなオカルト教説にハマって居ます。
もう、何十年も信者を続けているベテランで、その教えに従って日夜修行に励んでいるようなのですが、どうも思ったように進展しないのか、物足りないと感じているのか、ナンチャラワークとか不食の実践などにトライし始めてしまうようです。
その教えに従って修行することに問題があるのか、取り組み方に問題があるのかは、私はずっとそれに従事していた訳でも無く、当人でないので何とも言えません。その問題も当人の問題であるのも言うまでもありません。
ただ、私はその教祖さんが言っていた「思いを超えるということは、神に思いを向けるということ」であるのは、全くその通りだと自内証出来ます。これでジンジンしてきたら私などイロイロ試そう何てこた思いませんi
ま、何を思い、何を感じようと人の自由なので、夢を追いかけ、夢想に浸るのもいいでしょう。私もある面ではそうしています。
けれども、その宗教の本来の眼目とも言える、神的なものにつながり、本心を開くことに関しては、夢想、妄想、思い込みに囚われている限り、叶うことは無いでしょう。
本当は、神という言葉自体も様々な概念、イメージと結び付き夢想、妄想を作り出す元ともなるので、使わない方がいいのかもしれません。
だから、私はしばしば神的なものとは、現臨と言っています。現臨、現存...。
神的なものはリアルな現実と切り離されていないのです。
私は改めてこうした言葉の響きを感じて全心身が震えそうになります。これを足りん頭を振り絞って、もっともらしく哲学的に説明することもある程度は出来るかもしれません。だがそれで分かったつもりになったら、あらゆる現実は思い描いたものになるだけです。
そも一体現実とはどういうものなのか? 抽象的現実などあろうはずありません。
人が言う現実とは、自分の前に立ちはだかる動かし難い壁のようなものでしょう。
例えば、先の例で言えば、いくら修行に励んでいても、いっこうに進展が無ければ、そうなっているのが現実です。そうなっている...出来ないんだから仕方がありません。それは受け入れるしかありません。
しかし、自分がその事に負い目を感じてか、自分は進んだ人間と思い込もうとしたり、人にもそう思わそうとすることは、現実を受け入れていないということです。そこから現実遊離が始まるのです。進んだ人間がエライ訳でも遅れてる人間がダメな訳でも無いのです。
私について言うならば...私は何の行であれ、日々のその行すらしてないi 最初から落第してるようなものです。
出来ないんだから仕方が無いi 出来ないことを思い知らされているんですi そうした現実が臨んだことで...
現実が臨むということは、どんな夢想も、妄想も入り込む余地などありませんi これは全く動かし難い壁に違いありません。
だが、私は壁の向こう側にあるものを垣間見てしまいました。その壁とは"そう思い込んでいたもの"で作られていたのです。
しかし、もはや何も考えることが出来ない...だから受け入れることしか出来ないのです。負い目も何もない、疑いも迷いも無いi
それはすべて"私は出来ない"という現実を受け入れたことから開かれたのです。
"出来る、進歩出来る..."と思い込むところ、囚われるところには、飽くことなき堂々巡りしかありません。
それは現代文明というものの諸相に示されている通りのものです。
現実逃避などと言うけど、人が言う現実など所詮人が、世の中かがそう言っているだけのものです。
自分の現実というのは...いや、その自分を置いて一体どこに現実など有り得ようか?
そこに思いがけなく壁の向こう側から生ける現実が臨むのですi
誰もこの現実からは逃れられませんi
私の一寸した知り合いのある宗教の信者でも、いつもその格好の逃げ場である、イロイロなオカルト教説にハマって居ます。
もう、何十年も信者を続けているベテランで、その教えに従って日夜修行に励んでいるようなのですが、どうも思ったように進展しないのか、物足りないと感じているのか、ナンチャラワークとか不食の実践などにトライし始めてしまうようです。
その教えに従って修行することに問題があるのか、取り組み方に問題があるのかは、私はずっとそれに従事していた訳でも無く、当人でないので何とも言えません。その問題も当人の問題であるのも言うまでもありません。
ただ、私はその教祖さんが言っていた「思いを超えるということは、神に思いを向けるということ」であるのは、全くその通りだと自内証出来ます。これでジンジンしてきたら私などイロイロ試そう何てこた思いませんi
ま、何を思い、何を感じようと人の自由なので、夢を追いかけ、夢想に浸るのもいいでしょう。私もある面ではそうしています。
けれども、その宗教の本来の眼目とも言える、神的なものにつながり、本心を開くことに関しては、夢想、妄想、思い込みに囚われている限り、叶うことは無いでしょう。
本当は、神という言葉自体も様々な概念、イメージと結び付き夢想、妄想を作り出す元ともなるので、使わない方がいいのかもしれません。
だから、私はしばしば神的なものとは、現臨と言っています。現臨、現存...。
神的なものはリアルな現実と切り離されていないのです。
私は改めてこうした言葉の響きを感じて全心身が震えそうになります。これを足りん頭を振り絞って、もっともらしく哲学的に説明することもある程度は出来るかもしれません。だがそれで分かったつもりになったら、あらゆる現実は思い描いたものになるだけです。
そも一体現実とはどういうものなのか? 抽象的現実などあろうはずありません。
人が言う現実とは、自分の前に立ちはだかる動かし難い壁のようなものでしょう。
例えば、先の例で言えば、いくら修行に励んでいても、いっこうに進展が無ければ、そうなっているのが現実です。そうなっている...出来ないんだから仕方がありません。それは受け入れるしかありません。
しかし、自分がその事に負い目を感じてか、自分は進んだ人間と思い込もうとしたり、人にもそう思わそうとすることは、現実を受け入れていないということです。そこから現実遊離が始まるのです。進んだ人間がエライ訳でも遅れてる人間がダメな訳でも無いのです。
私について言うならば...私は何の行であれ、日々のその行すらしてないi 最初から落第してるようなものです。
出来ないんだから仕方が無いi 出来ないことを思い知らされているんですi そうした現実が臨んだことで...
現実が臨むということは、どんな夢想も、妄想も入り込む余地などありませんi これは全く動かし難い壁に違いありません。
だが、私は壁の向こう側にあるものを垣間見てしまいました。その壁とは"そう思い込んでいたもの"で作られていたのです。
しかし、もはや何も考えることが出来ない...だから受け入れることしか出来ないのです。負い目も何もない、疑いも迷いも無いi
それはすべて"私は出来ない"という現実を受け入れたことから開かれたのです。
"出来る、進歩出来る..."と思い込むところ、囚われるところには、飽くことなき堂々巡りしかありません。
それは現代文明というものの諸相に示されている通りのものです。
現実逃避などと言うけど、人が言う現実など所詮人が、世の中かがそう言っているだけのものです。
自分の現実というのは...いや、その自分を置いて一体どこに現実など有り得ようか?
そこに思いがけなく壁の向こう側から生ける現実が臨むのですi
誰もこの現実からは逃れられませんi