人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

与るということ

2019-01-19 12:37:41 | スピリチュアル
"ああ、もう...風邪の治りかけの、ゆっくり静養したい気分の朝だというのに、何だi ややこしー電話してきやがってi ついつい怒声を発しちまったじゃないかi...おおっと、私はいつも愛と調和の中に居るんだったっけ...これではイカン、ニコニコせねば(作り笑い)...
ああ、シンド...疲れるわi"

もし、数分後、その心的状態のことをキレイサッパリ忘れてしまったとしても、一瞬愛と調和というものを感じたのなら、私は躊躇なくそれを受け入れます。
"お前は、よくそういう都合勝手なまやかしが言えるものだな"って?
そう、私は実にイイカゲンな人間です。だけどその事は素直に受け入れます。
だって、私は愛と調和に与ることはあっても、その境地に達した訳でも、その道をこちらで目指してる訳でも何でも無いからですi
その他、"神的なものと共にある"、"目覚めたi"、時に"一なるものとひとつになる"ということもありますが、これらすべては"与る""授かりもの"ということを言っているまでで、私個人の何ものかに帰すようなことは何も無いのです。
このすべてのものは受け入れなければならない...
もし、これがここから離れて、この自分が本当に愛と調和と一つになってしまうというのなら、隣のバカ親父との軋轢が無くなるどころか、この世に世界平和が実現してしまうでしょう。
そういうものに与るということと、自分が何かになる、現実に何かが実現するか、どうかというのは別個のことなのです。
自分の何かがやったり、達成したりすることじゃないのです。
でも、これで満足出来ない向きも多いですね。
それはこの世の中がそんな預りものみたいな、感じみたいな、アヤフヤなもののままでは認めようとしないということでもありますが...
そして、とにかくその境地を求めて、無限ループに嵌まったように、駆りたてられて行きます。
そこには何処にも行き着くところがありません。そして探求し続ける、その境地に達しようとする強固な自己への執着ばかりが感じられる。
自分からは終わりにすることが出来ないのでしょうか?
私には愛というものに向かおうとしないで、理に走り過ぎているのが感じられます。
飽くことを知らない自己は、愛に休らうことが出来ないのです。
もし、本当に覚醒体験なり、一瞥体験なりに与っているのなら、その原態というものが、どういうものかということが理解出来るでしょう。
それは自分の力、思いによってそうなったのか? それは自分の能力、思考というものが木っ端微塵にされた結果だったのではなかったか?
それは全くもって自己を超えたものの、為せるものだったはずです。そのもの無しには、自己は有るとか、無いとか言えるものではないのです。
神的なものに与るとは、そういう自分をどうこうすることじゃありません。これは飽くことなく何かに駆りたてられて行く、自分という思いから離れる("無くす!"とか血迷ったことではありませんi)という契機に与ることであり、愛に憩うということでもあります。
そして、この自己を超えたものが何処に私を導くのかは、私には預り知れません。
ただ与るものを受け入れることしか出来ません。
自分の思いを超えたものに、理屈抜きに惹き付けられるとはそういうことだからです。
コメント
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