人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

縁を借りて

2019-01-10 11:12:56 | 雑感
度々書いてる気がするのですが、このブログを初めて訪れた方(そうでない人も?)は、一体何を書いているのか、サッパリ分からないだろうと思います(笑)
これは、今まで知人との会話を通しても"君は何を言ってるのか、サッパリ分からんi"と言われ続けていたことなのです。
多くの読者には"捉えどころが無い"という印象を持たれているかと思います。
それもそのはず...私はハッキリそういう意図を持って書いてますから...
私はこれまでの精神的な道の中で、散々トラワレの様態を見聞きしてきたのです。
私自身が以前、新宗教にハマり、そこから離れてみて、如何にそれまで精神的牢獄の中でもがき続けていたか、それから解放されることが如何に自由で愛と希望に満ちたものか、ということを身に染みて分からされたことが、いつも書かされていることのバネになっているようです。
とにかく、"トラワレてはいけない...自分の道を自分で決めて、固めてはいけない...トラワレてはいけないことにもトラワレてはいけない"、とずっといつも見えない促しを受けているのです。
そうです。見えざる導き、見えざる導師のことに触れ、表して行くことが、見えるものへのトラワレから離れることにつながるのです。
"見えざる云々"ということにも、それは霊体なのか、守護霊なのかと、見えんものをさも見たようにトラワレてはいけないのです。
とはいえ、私はいきなりそういうものと交渉があった訳でも無く、いきなりそういうものが、ここにドロンと現れてくるもの(これは多く"話が見えてくる"という意味)ではありません。
なので、私はそういう関わりに至るまでの経緯についても記しているのです。しかーし...
これが又チンプンカンプンときてるようで...(笑)
"あなたは敬虔なクリスチャンかと思ってたら、何で他のイロイロな宗教の話が出てくるの?"
"あなたは最低賃金労働者に見えるが、哲学を語る知識層なのですね。そういう人は神がかりとかお告げだとかの話するのはオカシイでしょ?"
"あのね...分からん、見えんものを分かったように、見えたように決めつけなさんなi レッテルはどのように貼り付けようと構わんでしょうけど、一陣の風が吹けば、剥がれて飛んでっちゃうぞi"
"キリスト教の神は超越神なので、自己には求められない"、"非二元論者なのに、外側に神を設えるのはオカシイ"、"哲学では真理には到達出来ない"
ああ、めんどくさi
OO教、哲学、文学、神がかり、一元、二元...これらはすべて表現を"借りる"媒体に過ぎないのではないでしょうか?
借り物というと軽すぎるかもしれませんが、見えないものを伝達するには、形ある、見えるものを借りなければならないのです。
哲学、宗教的には概念というものを借りたりするのです。例えば神には様々な概念が付されます。しかし、概念そのものは神では無いし、"神は概念だ"とするのも概念です。
言葉で言い表されるものに、我々は様々な表現形態を見させられているだけなのです。そして、借りのものとは、"仮のもの"です。
仮、借りのものでないものとは、異なる借りのものを超えて伝わる"見えないもの"のことでしょう。
しかし、ただ、見えないものというだけだったら、空気といっしょです。
それはまさに言葉に言い表せない、理屈を超えて惹き付けてやまないもののことですi
もし、そういう息吹が感じられたのなら、私はどんなにエライ人から迷信のレッテルを貼られているものに対しても惹き付けられてきました。
どんな言葉の媒体であっても選ぶところは無いのです。
"OO教だの、OO主義だの、一元だの、二元だのと言ってたって、このものに触れられるかi"
大調和協会の命位様は「あなたはアチコチで縁を借りてるのね」と言ってましたが、私はここでヘンテコな放物線を描く見えたり、見えない縁のトレースを記しているまでです。
僅かなりとも、あなたの縁に触れるものがあればと思っていつも書かされている次第です。
コメント (2)
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