人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

今ここ

2015-12-20 13:52:47 | スピリチュアル
”そのままでいい”、”あなたが変われば世界が変わる”…スピ界の標語みたいで耳にタコが出来そうですね。
でも、そのスリーワード? のうちのもう一つについても触れとかないと…
それが”今ここ”…”分かったよ!、もういい…”っていうあなた! ホントに分かったのですか?
”今っていつ?、ここってどこ?”
 ”そんなのない!”、”ハイ、正解!”というのは早合点です…正解なんてないですよ!
正解、真実を飽きもせずに追い求めて、堂々巡りしてるのが表側の世界の現状なのではないですか?

”今ここ”というのは、一連なりで表せるように、時間と空間が別々になっている事でも無く、そもそも特定できる限られた時間、空間も無いという事を言い表しているのでしょう。
”ここ”的な事については前回触れましたが、”今”というのはまあ、現在ですよね。
スピ界ではしばしば”今しかない”などと語られます。過去も未来も無いんだと…
これはニュアンス的な問題だと思いますが、こういう表現は誤解されかねないように感じます。
”過去も未来も無く、現在しかない”というのは、過去に捉われ、未来に捉われる事と同じようにやはり現在という限られた時間に捉われてしまう、ということなのではないでしょうか?
意識が変容すると、過去も未来も消えてしまう訳では無い、それらは”今”につながる、ということなのでしょう。
”今しかない”という事が強調される時、私は特に過去の否定と結び付けられているのを感じてなりません。
自分の過去の否定とは、取りも直さず自分自身の否定に他なりません。
私が実感したものは、過去の諸々の断片的な記憶(自意識で封印していたものも含め)が全て一つの焦点に結び合され、”今ここ”に蘇ってきた、と言う感じでした。
人間誰しも呪わしく、葬り去りたい過去を引きずっているものです。”忘れ去りたい”というのが人情というものです。
何がそのように狂おしく我々の精神を苛むのでしょうか?
それは”愛の不在”です。
その時、愛から切り離されていたから、ずっと心に傷を背負っていたのです。
しかし、今ここで無条件の愛が全身全霊に浸透されることにより、過去は変容されるのです。
自己にまつわる苦難に満ちたストーリーは、影に隠れていた真の監督、脚本家の登場で書き換えられるのです。
過去についてはこんな感じですが、未来は? ウーン、分からないです! 具体的に感じるのはいずれ歴史は見直されるどころでない、変容に見舞われるだろう…という事ですかね…(これって実は”世界の終わり”を意味するのかもしれませんけど)…闇に包まれた話は言えません…一寸先は闇です。不幸な人の過去よりよっぽど暗いです。 ただ過去が蘇ると”X”に包まれた未来も見えてきたりします。
アセンション的な話で、O年O月何が起こる、かにが起こるって…お分かりと思いますが、これは限られた時間の中で、時間を超えた世界の訪れについて言っていることなのです。その日、その時多分”地球は静止する”でしょうが、ずっと”時間なんてなかった”と非二元論者お得意の観方も出来る訳です。

私は意識の変容などといったことをここでも言ってます。
でも本当は愛の権化なしでは、何一つ起きたりしません。
”今ここに在る”とは、このものと共にあるという事です。そして過去も未来も同一線上のものとなります。
それは、探究や修行の結果得られるようなものじゃないのです。
勿論、それが契機となることも有るでしょうが、何時でも何処でもその契機は在ります。
今ここに…。



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そのままでいい

2015-12-19 20:26:50 | スピリチュアル
私が初めて、人生の裏側を垣間見た場所というのは、大阪のど真ん中、実に忙しく、喧騒に満ちた駅前ビルの地下街でした。
全くと言っていいほど精神的、超俗的な場所とは程遠かったのです。
”その瞬間全てが光輝いて見えた…人々の内に神が息づいているのが感じられた…
その場所がどっかの高次元に移行してしまった…”
なんてことは全くありませんでしたよ!
高次元とか霊的進歩とか上昇志向の人が、想像を掻き立てるものは何も無いのです。
もっとも、私の周りは完全に透明なバリアのようなもので遮断されていたようで、周囲のことなど殆ど感知されて無かったのですが…
雑踏の喧騒など全く影響されることなく、人生のエアポケットに入っていたのです。
これ、全て自動的に起きていたことです。
自動的という事は、何も出来ない、しなくていい…つまり”そのままでいい”、ということです。
そのまま…ありのまま、ですね…。
昔”私はありのままでいいんだ…”とある人に言ったら、”そんな君、ありのまま、なんて言葉は軽はずみで言えるような事じゃないんだよ!”などと難クセをつけられたことが有るのですが、ありのままで居る事ってそんなに大変な事なんですか?
”今、私はありのままでないようだから、ありのままにしないと…”これでは絶対ありのままでなくなります!
ごくごくシンプルなことというのは、、ホントに考えたり、構えたりするのもバカらしいことなのに、そのまま、ありのままになる探究、修行してる人いるんでしょうか?
転んだら、転んだままがそのままだし、おバカになってたら、おバカなままがそのまま、ということ…他になり様がありません。
”要するに自動的になされるものの前では降参するしかない…”というのが、そのままという訳であり、その契機というものもありのままなんだということです。
そして、どこかの聖地、パワースポットに行ったり、瞑想センターで修行したからといって意識が目覚めるとは限りません。
(勿論、そういう場所へ行くのも価値有ることに違いないです)
これ、恩寵の光というものは、人がどこで何をしていようと捉えられる時は、捉えられてしまう、ということですね。
何処にも宗教的救いといった要素など感じられないような都会の雑踏、決して光の差さないような暗い場所…そこが聖なる場所となるかも知れないのです。ただそのままでありながら…
見えてる景色は何一つ変わらないかも知らない…しかし根本的に全く違う! 意識に光が灯されているのです。
何かを求め、忙しく機械のように歩いている行き交う人々、ずっと飽き飽きと見慣れている光景です。
でも私はその時ほど、それが強く血の通った有機体に感じられたことはありませんでした。
本当に聖なる場とは、それと程遠く感じられる場と全く別在しているものでも、その場が魔法のように光輝いてその場に変容してしまう事でもなく、そのままの場でありながら、聖なる生命が息づいている場ではないでしょうか?
それは上昇指向やピューリタン指向の、”善なるものは残され、悪なるものは淘汰される”といった偏った視方でなく、善も悪も、聖も俗も無い…トータル、全包括的にそのままになっているものなのです。
見えてる世界が変わるのでなく、それをどうにかしようとしなくても、自動的に意識が変わるのでそのように感じられるのです。
何かをやろう、何かになろう、というよりもそのままでいい…そのまま程リアルなものは無い…。









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人類の目覚め

2015-12-18 19:26:27 | スピリチュアル
冬至も近くなりましたが、あの狂騒から三年、アセンションなんて未来のことだったハズが、過去のことになってしまった感が有りますね。
神の国、ミロクの世の実現…こういった話というのは、沢山の尾ひれがついて色褪せてしまうものが有る一方で、古来からずっと人々の内面に映じ続けています。

今から、21年前、「あなた自身と人類の将来について、どう考えていますか?」 とF氏から問われ、私はすかさずこう返しました。
「それは二つの事じゃない、分けることが出来ません。」
人類と言っても抽象的で捉える事など出来ませんが、私はそのことをある時、自分が普遍的なものとつながっていることを実感したことを想起して、そのように述べたのです。
だからと言って、私は全人類に対してなにがしかの責任が有るとか、貢献すべき事が有る、などといった大それたこと、重苦しいことなど思っちゃいませんけど…ただどうしても今でこそ、熱は冷めてるものの意識のどこかで拭い去ることが出来ないものが有ります。それは凡そ以下のようなものです。
”私は運命のいたずらか人生の裏側に足を踏み入れてしまい、意識の変容に伴い数々の気付きを得た…だが実はそれは私の個人的な、主観的な体験として片づけられてしまうものでは無かった…これは普遍的人類の目覚めとも言うべきものと結びついているのだ!…”
実はその時私がF氏に対して語った事というのは、その体験をもとにして、”もしそれが人類的規模で起きたら…”という事を想定して語ったことなのです。
「人間とか人類と言っても、我々はその真の姿を知らないんです。見たまま、思ったままがそうなんじゃないんです。でもTさんだって僕だって奥の方ではちゃんとそういうものは有るし、分かってるんです…そうでしょ! 近い将来それが明らかになるのです!」
と…初めは何だか明るいお花畑に居るようなトーンで話していたものの、氏からこのような質問を受けてから雲行きが怪しくなってました。
「今の世の中の現状を見ていると戦争有り、環境破壊有り、異常気象有りで、貴方の言うような普遍調和に向かっているようには僕には感じられない…一体何が契機になってそういう具合にシフトしてくるんだろうか?」
私はしばし、沈黙…いやあ、ごもっともな感想です。これは極めて重要な問いに違いありません。私はそんなこと殆ど考えたことも有りませんでした。
呑気というか、飛躍してるというか…出来上がったものしか思い浮かべてなかったのです…。
そして…パッとひらめいたのが謎の宇宙線”X”でした。要するに我々の意識を根底から変えるもの、遺伝子をオン状態(こういう話もしました)にさせる何かであれば、フォトンでも何でもよかったのです。
(本当は聖霊とか全てを照らす”照明”、すべてに浸透する”光の雨”のようなものが脳裏に有ったのですが…)
割と科学に強そうなF氏を納得させる説明をと…(余計こんがらがったかもしれません)
ただ私などは前もってある程度知識もあり、予兆のようなものも与えられていたのですが、何も示されていない多くの者にとっては、おそらく相当ショックを受けて無意識状態に陥ってしまうだろうと、その時は危惧していてそう言ってしまったのです。
今は…”どうなろうと知ったこっちゃない!”…人それぞれの見えざるガイダンスが面倒みてくれるだろうと思っています。
勿論、それはそのような人類規模のことが起きたら…という話ですが…
F氏とはさらに深く、色々な事を語り合ったのですが、”次元上昇”なんてことには触れたことはありませんでした。
上昇するのか下降するのか私にはわからないです。現代文明は今よりももっと高度に進化するんだろうか?
しかし…進化、進歩ってもういいんじゃないですか…人間それ自身がその基盤となるものから離れ、進歩して行くものと錯覚してきたところに現代文明の行き詰まりが有るのではないでしょうか?
我々人類は頭打ちに有って自らの無知、無力を悟らされるでしょう。
そして…その基盤となるものが顕わになる…人類の目覚めです!
何故だか自分のことのように語ってしまう自分が居ます…




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聞くこと

2015-12-15 20:04:43 | 雑感
平成8年、私がある個人に向けた予言めいた話というのは、実は仕組まれたものだったのです。
話が上手く、それ以上に驚くほど聞き上手なそのヒトにまんまとハメられてしまいました。
そして…私はその事をとても感謝しています…。
そのT氏は、そもそも私の関西移住と深いつながりが有った、謎の秘教団体”D会”に私と入れ違いのように関わっていた人物なのでした。
私は既にそことは疎遠になっていて、私にとって唯一、師と呼べるような存在だったM女史もその年の春急逝されてました。
T氏はD会には確か最初建築関係の仕事の絡みで来ていたと思いましたが、いつの間に深入り?するようになったのかはよく覚えていません。多分、私がそこに遠退いていた間に氏の上に何かが起きたのでしょう?
ある日そのT氏から突然電話が有り、「ゆっくり話がしたい…」と…私はてっきり私を”D会により戻そうとしているのか”と思ったものでしたが、確かにそのような説得もあったものの、ずっとその話し合いでもたらされていたものは実に忌憚の無い交流でした。
午後の三時くらいから実に十時くらいまで…喫茶店の閉店でやむなくお開きとなったのです!
(時折、店員がうっとおしそうな顔してこちらを睨んでました)
私はその時おそらく生まれて初めて自分自身についてのある発見をしました。それは「僕はこんなに流暢に淀みなく話す人間だったのか!」というものです。
話の内容は”D会について、どういう点で共感し、疎遠になってしまったのか…””私自身が今もっとも関心を持っていること…”そして一番私の意識が高揚したのは…あの話でした…。
何かパッと脳裏に言葉が浮かび、スラスラと自然に語らされる、という今までにない経験でした。
私はその時のように人前で自分の思ってること、感じていることを素直に言い表したことは無かったと思います。
大体が氏の問いかけに対し、私が答えるという展開で行われたのですが、合間に必ずと言っていいほどツッコミが入るのです。
とにかくその交流では、話しっぱなし、聞きっぱなしという事がありませんでした。
ツッコミが入ると、しばしば沈黙のブレークとなります。そして言葉が降りてくるのをじっと待ちます。
(チャネリングをやってる訳じゃないです)
それをまたじっと待ってるT氏…。
このようにして自然と話の中身は段々掘り下げられていきます。
そして常に会話をリードしているのは聞き側のT氏のほうでした。
私はこの時、人との話し合いの中では”相手の話を聞くこと”が如何に大切な事か、ということを痛感させられました。
話そう、として語られる言葉よりも、相手によって引き出される言葉の方がはるかに中身も濃くなり、伝わり易いものだと思います。
それはおそらく意識が相手との関係を一つに結び合わせているものに向けられるからだと思います。
こういう事は、例えばある観念、信仰といったものに捉われていたら、独りよがり、押しつけがましさばかりが相手に伝わるばかりですね。
相手の話を聞くという姿勢にも欠けています。
氏はおそらく、どこかでそうした”聞き方”に関する訓練を受けていたと思われるのですが、元々そういう資質に恵まれていたのでしょう。
私は心がけていても中々できません。どっかで意識が高揚してきて発作?が出るので…リードしてくれる人がいると助かります。

そしてあの予言めいた話というのは氏からの”自分自身も含めた人類の将来について…”という問いかけに答えたものなのでした。
本当は私の心象にずっととどめておこうと思っていたのです。
どうせ誰かに話したってマトモに聞いちゃくれないんだし…
「僕が何を言っても驚かない? ヘンに思わない?」
「全然…」
「それじゃあ…」と…私は信頼というワナにまんまとハメられたのでした…



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予言と心象

2015-12-13 14:00:07 | スピリチュアル?
何年何月にアセンションが起こります…
至高なる神のお告げです…
前世は誰もが知ってるかの偉人…
テロは自作自演だ、間違いない…

宗教、スピ界で相も変わらず飛び交ってる、短絡的としか言いようのないフレーズの数々…
それ、言い表す手前で理性のブレーキを利かすこと出来ませんか?
それとも、無責任に言い放ってしまう人というのは、頭がスタン・ハンセンのように、ブレーキの壊れたダンプカーみたいになってしまったのですか?
こういう話が全て幻想、妄想だと決めつけるつもりはありません。
ただ…私にはあまりにもが無い!と感じずにおれません。
学が無いとは、別に学歴が無いとか勉強不足と言う意味じゃないです。学問やってたらエライんだなんてことじゃないです。
その問題について、自分自身で掘り下げて考えているのか…それを外に向けて発信してしまって思慮が足りないとは思わないのだろうか?
非常識だと思われてもいいんだろうか?
もっとも人からどう思われてるかなど気にかけてたら、ブログなんか書いちゃいられませんけどね。
この界隈では常識的、哲学的理性よりも直観性というものが重視されるようです。
それは”論理だなんだで真理など分かってたまるか!”と常に思っている私にも頷けることです。
ただ直観的であることと、思慮が足りないという事とは違います。

実は言うと…何を隠そうエラそうなこと言ってる私も”短絡的、非常識な事言う人間”と思われていたようなフシもあるのです。
いや私は自覚してます。ホントに危うい人になりかけた事が有ります。
それは2000年夏から秋にかけて、20世紀の終わりという、いかにもな時節の頃です。
ゲリー・ボーネルというチャネラー系の人の「光の十二日間」という本を読んだのがキッカケでした。(あなたも読まれた?)
私は思わず、ぶっ飛んでしまったのです。(多分理性が!)
何故かというと、そこに書かれていた所謂アセンションの模様がその数年前、ある人に個人的に話したこととそっくりだったからです。
ただ違っていたのは、その日その時地球全体を覆い尽くし、全人類に劇的変容をもたらすであろう光の巨大な帯…ボーネル著でフォトン・ベルトとされていたものは、不可知の宇宙線なのでした。全ての物を透過する見えざる雨という点では同じです。(フォトン…なんてものは知らなかったのです)いや、私が本当に伝えたかったことは、光子や宇宙線によるものかどうかなどはどっちでもいい、世界的規模の聖霊のバプテスマ~霊の洗礼によって全人類の意識が変容するであろう…という事だったのです。
そしてこの喜ばしき人類の祝福で、危機感をもって話さざるを得なかったことは、そのドラマの渦中にある時、全人類はとてつもない精神的嵐に見舞われ、多くの者は無意識状態に置かれるであろう…ということなのでした。
私はその時の予言(余言?)談話でその方に「これはあくまで私の想像に過ぎません」と何度も断りを入れていました。(内心は違いましたが)
しかし、その4年後私が興に任せて語っていたこととまんまのようなストーリーを目の当たりにして、私の意識下でにわかに現実味を帯びてしまったのです!しかも”私の目の黒いうちだろう”と言っていた、その運命の日はボーネルに依れば翌年の夏だというではありませんか!
”こうしてはいられない!”と私は全世界に向けて…という気持ちもありましたが…ごく少数の物わかりのよさそうな?人に当てて、この事に関した衝撃の書簡を送ったのでした。して”貴殿のご意見、ご感想を乞う…”などとしたためたものの誰にも相手にされませんでした。

その運命の日を(幾分熱は冷めてしまいましたが)固唾をのんで過ごしましたが、ただ暑くて無意識になりそうになっただけでした。
私はそれ以降、ぶっとんだ話をする際には慎重になったのは言うまでもありません。
たとえ、自分自身は確信が有るにしても心象にとどめておくようになったのです。
この心象という言葉は私の自戒の意味でもあるのです…。


コメント (2)
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