人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

昭和のアナログ感性

2018-05-03 12:01:40 | 雑記
私は、自分の中に相反する性格が同居しているネコ人間。
とても目敏く、進取的になってるかと思えば、昔から愛好しているものをいつまでも忘れずに大切にしていたりしています。
休みの日とかは、ついつい原チャリ跳ばして、東武東上線、西武池袋線沿線とか、レトロな昭和の薫り漂う商店街に足を伸ばしてしまいます。
かつてその界隈で私は、純喫茶(死語i 不純な喫茶店てのがあったのか?)、古書店、中古レコード屋さん、というお気に入りの三社巡り?をしていたものですが、もうこの十数年のうちにそのいずれも廃れる一方になってしまったのは寂しいかぎりです。
私の中のレトロな昭和とは、こうしたものの思い出と共にあるのです。
しかしながら、いまだに頑なに昭和の"シキタリ"を守り通しているものがあります。
これを"旧態依然、進歩が無い"という向きもあるでしょうが、何であっても楽しけりゃいいのです。
形式というものはあっても、その中身、楽しいことには形がありません。
媒体は古くとも楽しいのは今i これが肝心...
ー円盤に"シュッ、シュッ"、ベルベット様(何かのスタンプではない)のものでそれを拭き取り、"さあ、ワクワク"、針を落としてプツン...
こういう儀式のあらましを言っても、若い人には、私がipadなどについてそう感じるように、異次元のことみたいに感じてしまうでしょうが、私は今でもアナログレコードを聴いているのです。
以前使っていたプレーヤーがイカれて数年ブランクがあったのですが、7年前のある日、むしょうにいくつかのLPレコードを聴きたくなったところ、たまたま安くプレーヤーが手に入り復活させることが出来たのです。
勿論CDを聴く時もあり、ブランクの期間は、致し方無く聴く音楽の傾向もそれに合わせたものになっていましたが、それ以来主流の傾向は元帰りするようになりました。
世にはアナログでしか聴けない音源というのも沢山あるのです。(しかし、それらのいくつかはyoutubeでフツーに聴ける。隠された、埋もれたものが表に顕れるオソロシイ時代になったものです)
CDが登場したのは、80年代の後半ぐらいでしたが、私が巷の在り方に便乗したのは、ようやく94年頃でした。それまで"誰があんなもの聴くかi"と意地になっていたのです。
"CDだとお...ヘンなものが、出てきやがったなあ...何、CDアルバムだとお...シングル盤より小さいクセに何がアルバムだよっi...何、裏が無いだとお...物事には表と裏があって成り立ってんだよ、そうでないと肝心なところがボカされたままじゃあないかi...収録20曲超i いつ裏返るんだ...まるで出口の無いトンネルだ、長いなあ..."
かように私は、CDについてはほとんどその有り難みを感じたことはありません。
といってもやはり聴く時もある訳ですが、ちゃんとA面、B面とに分けられているのです。(それがフツーなのでは?私だけか)
20曲入りでしたら10曲までがA面で、B面はその半分てな訳で、要するにアナログに則っているまでです。
そして原則一日に片面しか聴きません。これはやはり私の昭和の名物ジャズ喫茶(不純か?)に倣っているのです。(リクエストする時は、A、Bどちらかを指定する)
一日にイロイロなレコードを聴きたいですからね。20分ばかししたら、"プツン、ジジジジッ"てなって終わるのです。
それがCDときたら、中々終わらんi "途中で聴くのやめりゃいいだろ"って...
一度針を落としたら"プツン..."となるまでやめる訳にゃいかないでしょi
再生というのが始まったらどうしても...それは再生装置によってそうされるのではありません。
私の感性というもの無しにそういうことは起こらないのですi
雑音は多いが、クリアーに部屋中に広がる私のアナログ感性...
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現在、贈り物、意味以前

2018-05-02 12:24:56 | 雑感
ここんとこ、行方をくらましていた人気ブロガーのNさんが、又新たにブログを始められたようです。
そのタイトル名は、英語の「presentー"もらいもの"」というところから来ているらしいですが、それには"現在"という意味もあります。
いやあ、Nさんも言われる通り、本当にこうして在らしめられている、生かされている、ということは天からのもらいものという他ないですねー。
私がクドイほど言っている"現臨"というのは、現在に、そう在らしめるものが臨むものなのです。
どうしたって、こうしたって自分から作り出すことは出来ないんです。
これはアジス.クリストフが言うステート.オブ.プレゼンスと関係が有るのか、どうか分かりませんが(何でもよくない?)、確かに生ける現在にあるって感じになります。
それは修行して開発されるものでなく、そもそもそれ無くして、自分が存在出来ないくらいのものです。
これに無い、ということがどういうことなのかは...本当にそうなってしまったらここに、こうして生きてられない訳で、感じられる身も心も世界も、勿論喜びも苦しみも無く、自己は虚無のうちに消え去るのみという、その片鱗だけは何となく分かります。
私がそのように、現在ここに生きているという感じが分からなくなる事態に陥った時、意識が遠退きそうな状態の中で、そのものの臨在を望んでいたら本当に文字通りそのものが臨んだのです。
人は誰でも苦しみ、悩みから逃れたい、救われたいと望んでいるものです。
それを生き地獄のように感じている人も居るでしょう。
だけど...悩み、苦しみが無ければ喜びも幸福も無い...天国も地獄も無いのです。
自由意志ってもんがあるから、どんな罪なことでも、バチ当たりなことでも出来るし、地獄に赴く自由も、神に反逆する自由もあるのです。
もし、無限地獄というものがあるとしたら、永遠にそうした生の事態に預かることが出来なくなるってことじゃないでしょうか?
("自分は居ない、究極の非二元の境地に到達しました"何て宣っているのは、多分そう思い描いているだけか、そう言いたかっただけでしょう...)
"苦悩と隣り合わせのヌカ喜びの幸福などあったって、どうせ又苦悩に取って代わってしまうだろ..."
って...ホントに、ホントにそう思いますか?、そう感じていますか?
なーんも無くたって、朝目覚めたら幸福になってた...とかありませんか? 綺麗な夕焼けなどに観入っているうちに、そんな風に感じてきませんか?
私はそうなっている時、"これがここに生きていることのベースなのだ"という実感があります。
ジンジン...と。たとえ、現状が不幸そうなことになっていようと、この現在に臨むものにあって、幸福でない訳がありません。
(宝くじが当たったとか、数字の見間違いだったとか、ヌカ喜びってものはあるかもしれないが、ヌカ幸福なんてあるんでしょうか?)
その上で喜んでたり、苦しんでたり、バカなことを懲りずにしている...などの各々の人生模様が繰り広げられているのです。
それ自体に善も悪も、賢も愚も、聖も俗も、意味が有るも無いもありません。
意味が分かったところで、その生の根底にあるものは分かるまいi それは意味付け、頭の納得以前にあるものだからです。
先に私は望んでいたものが、臨んできたと書きましたが、実はそれは私の事始め以前から与えられていたものなのです。英語のスペルの"pre"にその辺りのことが伝わってきます。
いずれにしてもプレゼント...現在、贈り物、すべてに先立つもの..
それが生きている、生かされている証...




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あなたと私の世界平和

2018-05-01 11:34:17 | 雑感
この世には数多の宗教、思想というものがあります。
私自身も全く節操無いくらい、多くのそうしたものを知っているし、関わりもありました。
世間で宗教、思想遍歴と言われていることもしてきたのかもしれません。
しかし、ある時から、そういうものはもう、"これっきゃないi"という実感を抱くようになりました。
これがすべてなんであるi ここから始まり、ここを経巡り、ここに帰着せざるを得ないのです。
そうです。それは我が"見えざる師"よりもたらされた教えの他は無いのですi
救いも悟りもこれを置いてはあり得ないのですi
それ以外の教えはすべて間違っている...んな訳ないだろーっi
そうした思いこそがもっとも救いから遠い、度し難いザマと言えるでしょう。
この道は一つのものであり、すべてのものなのです。すべてというのは普遍に開かれているということで、この教え"のみ"が正しいということはあり得ようハズは無いのです。
いつも正しいこちら側があり、悪、間違いと見えるものは、こちらの都合よく消え去ってしまうというものでなく、それらは真なる、普ねきものとしてあるものをもたらす種としてあり、自他の調和のうちに化されてゆくようになるものでしょう。
それらはどこにも消えたりはしない...すべての不調和、悪と見えるものは、ものの本来性へと帰らざるを得ないでしょう。
それらに纏わる思いの方が消えてゆくのです。
見える師、見える教えでないので、他を隔てる何ものもありません。
"一つである"とは、あなたや私がこの世に一つとして同じ存在は居ないということでしょう。
ということは、あなたにとって一にしてすべてなる絶対的な教えとは、巷に数多ある教えからでなく、あなた自身の神から示されるということです。
それは元の神が世に出る、ということであり、キリストの再臨であり、ミロク下生であり、真我の実現であろう...
真の神、大本の神は、あなたの深部から表に顕れるのです。
「世界平和は、すべての宗教、思想界が名称は神だろうが、仏だろうが、キリストだろうが宇宙根源の神の意志どおりになったら実現するのだ」(出口王仁三郎)
"一にしてすべてである"ことは、あなたや私に真の神が顕れて、そのものとつながることは、一即一切...すべての世界にそれが及ぶということです。
五月の陽光を浴びつつ、もう、このジンジンと私のすべてを照らす光に預かり、"ああ、このまんま私のすべての世界が平和ならんことを"という祈り心が込み上げてきてなりません。

日本海の向こうでは歴史的なことが行われたようですが、ヴァーチャルなものを観ているようで、どうしても素直に喜ぶことは出来ません。
しかし、昨日ありし日の昭和天皇の映像を観ていて、私の中に連面と流れている見えない大統なるものが揺さぶられたのか、思わず涙がこぼれたことは確かな実感がありました。

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