人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

メシがウマいという真実

2019-03-21 10:21:54 | 独語
何かをしている自分は居なくて、すべては起こっているだけ...
そう言っているのに、引き寄せの法則などを持ち出して、何かを引き寄せているように思えるものは一体何?
はあ...自分が何かを引き寄せているようなことが起こっているんだ、とかなんとか...
すべてがOOなら、どんな間違いも、都合悪いことも、ウカツに言っちゃったことも...すべてはOO...

アホくさいことは勝手に起こってくれてたらいい
そして、勝手に消えていって欲しい...
因果論がどうした...運命論がこうした...
神に聞いてみにゃ分からんことを、神様気取りのヒマ人たち...
味も何も分からん、浮遊し続けるだけの真理...
なーんにも触れることなど出来ない...何一つ食えやしないのに...もう、ゲップi
あの人たちは頭でメシを食っているのか?
いや、空気みたいな真理を語って、メシの種にしているのだろう...

何がどうなっていようと、いまいと...
今日もメシがウマい
桜も開花目前...ウキウキ楽しいなi

何一つ感じられない真実などあるだろうか...
身が頷かない真実などあるだろうか...
そこに真実があるらしい...
真実の香りがする
惹き付けてやまないもんがあるi
きっと、それは美味しいものなのだろう...
欣喜雀躍せずにおれないものなのだろう...
ガツンと手ごたえの感じられない真実など...一体何になるだろうか?

メシを食うということが起こっているのか...何の因果か、運命か...
どーでもいいが、今日もメシがウマい...
これにゃあ、唸らずにおれないi
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最愛のものと原初の愛

2019-03-19 12:04:32 | 
あなたにとって最愛のものとはなんでしょうか?
イイカゲンなものじゃない..."最も"愛しているものです。
私はいつも何か神的なものに誘導しようとしてるみたい(?)ですけど、それは私のことを言っているまでです。
この弁明を言えば、神のことは、いつもエラそうに言って、色々知識としては知っていますけど、実は知らないのです。
私の思いを超えたもののことを"神的なもの"と言っているのです。
私はそれが何かは知らないですが、そこから愛、平安、リアリティがもたらされることは知らされています。
そして、皆さんにも経験があるでしょうが、最愛のもの、愛してやまないものと共にある時、諸々の思いは超えられているのですi
多くの宗教で信じられている神というものが、如何に余計な思念で塗りたくられ、歪められ、混乱、不調和をもたらしてきたことでしょうか?
"神の怒り、神の裁きは恐ろしい..." 神を信じるという人間がそう言っているだけで、神から直に聞いた訳でもないのに...
宗教の世界では、今でも異なる名の神が争いあっている...
私は強く言いたいi
"神を教える者ほど、神のことを知らず、我々を神から遠ざける者は居ないi"
"神を、宗教の神から解放せよi あなたと私の、一人一人の神へと還元せよi"
もし、一人一人に神的なものが知らされるなら、この混迷に満ちた世界はたちどころに調和に満ちた世界へと化されるであろう...
ある人には最愛なものとは、特定の人物、ペット等々かもしれません。でも私がこの最愛なるものということで、神的という意味合いが理解されるでしょう。
ここで、とてもとても肝心なことで、多くの人が気付かないであろう、盲点について言わねばなりません。
神であれ、聖者、恋人であれ、愛というものは、ある対象があって生まれるものと思われていることでしょう。
確かにその通りで、その対象となるものとの出会いを通してもたらされる、とは言えるでしょう。
しかし、実際にその愛は誰が感じているのでしょう? アホみたいなこと言ってるようですが、実際に自分が感じてなければ、相まみえているものは特別な存在でも何でもないのです。
自分がそう感じられるのは、元々そういうものが自分の中にあるからではないでしょうか?
それが対象となるものが媒介となって、共鳴されて、呼び覚まされたということでしょう。
一度でも、そういうことが実感されたなら、愛する対象が無くとも、その原初的な愛とも言うべきものが、ずっと自分の内奥に息づいていることが知られてきます。
つまり愛そのものは、自己を抜きにしてはあり得ないのです。
もし、神が自己の内なる愛から切り離されると、偽りの明け渡し、狂信が生まれるでしょう。
こうなる人というのは、自己信頼が欠如しているのです。
又愛する対象がこちらの意に添わなくなったりすると、愛は憎しみに変わるかもしれず、それを失うとずっと心は悲しみに沈み、引き裂かれてしまうかもしれません。
この内なる愛は、皮相的な自己愛のことではではなく、"一体、この私のどこにこんな感じのものが隠されていたのかi"と、やはり思いを超えた、全く思いがけないものです。
愛の対象となるものも、この原初の愛と結び付くことで、思われたものではなくなり、さらに別の観方、感じ方が生まれるでしょう。
内にも外にも、ここかしこにも最愛のものが呼び覚まされんことをi



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ハートで感じること

2019-03-17 12:38:54 | スピリチュアル
今月からファミレスの「ガスト」のモーニングのメニューが新しくなり、豚汁定食というのがお目見えしました。
"こりゃあ、ええi"
ひじき、納豆が付いてるi 豚汁は、高血圧には優しい薄味i
他店の汁物はどっこも濃くて、残してしまうのですが、みーんな食べちゃったi
やっぱり、身体は何が食べたいかよく知っているのでしょう。
こういうのが次々出てきて欲しいものです。

身体のことでも、精神のことでもホントは何を望んでいるのか、実際にそういうものを味わってみなければ分からないものです。
一度味わってみれば、自ずと分かる...食べ物だったら味覚で知っているのです。
精神のことは、中々こういう訳には行かないものです。
本当に味わうとはどういうことなのか? 分からない内に"これが真理ですi"、"これで幸福になれますi"、"これであなたのハクが付きますi"という、他からの声に容易くなびいてしまうのです。
そして、知らず知らずに、"何が得か、何がハクが付くか、何が流行か..."といったような判断に流されてしまうのです。
何故、こうなってしまうのか? それは精神のことは頭から来るものであり、頭で決めなければならない、という思い込みがあるためでは無いでしょうか?
私がいつも言っている、"意識を向ける、意識的になる"ということは、頭からだけからは決して来ないものなのです。
頭だけで"意識がある中心に自ずと集まってくる"ということには決してならないのです。
頭から、思われている意識を集めようとかすると、それはどうしても"意識を集中する"ということになってしまうのです。
これは全く違うことを言っているのであり、それは思念、意念に頼ることではありません。
これはですねえ...今、初めて実感されたんですけれども、意識がハートにあることでそうなるんです。
意識が中心に向かうところにハートがあったi 内なる意識の消息のことは、ハートというものを抜きにしては語れないのであったi
私はヨガの実習などしてる訳じゃないので、これはハートのチャクラが云々ということは、分からないし、申し上げられません。
ただ、頭だけからは決してもたらされないものとして、ハートということを言い表すしかありません。
チャクラがどうとかは知らないけど、具体的にどういうものか分からないものだけど、こんなにも自明なものは無いi 理屈抜きに惹き付けられてしまうことほど自明なものは無いのです。
ラマナ.マハルシが"ハートこそは神の座である"と言っている意味が実によく分かります。
頭の判断だけで、他に容易くおもねってしまうことは、ハートの声を無視しているということでしょう。
ハートを通さなければ本当に味わうということが出来ないのです。
食べ物だったら、味覚で覚えているように、頭の記憶でなく、身に覚えていることもこれによるのでしょう。
それは、絶対に他に代えることの出来ない、あなたと私にとり最愛のものであるはずでしょう。




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神を遠ざけるもの

2019-03-16 12:37:33 | スピリチュアル?
神に意識が向けられる、ということは諸々の思念から離れるということです。
こう考えれば、特定の宗教やスピに囚われている人間ほど神に意識を向けることが難しいと言えるでしょう。
彼らは、自分が信じている神なり、真理なりの思念を手放したくないのでしょうから。
彼らは、自分の信仰の向こうにある、"正神"、"正師"にまみえることをとても恐れています。
まるでそういうことになったら、自分の人生もこの世も終わりになってしまうかのように...
全く奇妙なことのように映るかもしれないが、これが多くの所謂信仰者の裏の顔なのです。
彼らほど真の神を信じていない人間は居ないのですi
特定の教理や、何らの確証もないオカルト教説などにハマり続けることで、正神から思いを背けることが出来る訳です。
彼らの口から時には"悟り"などのことも上ることもあります。
でも、それは必ずしも神的なものと共にあることとは結び付いてはいません。
悟り、覚醒などのことは、より高い、より成長、進化した自己となりたいがための、格好のステータスのように思われているようです。
そうです。彼らは自らもより高い自分であろうとし、他人にもそう思わせることに余念がありません。
その進歩の有り様は、どこまでも思われた自分の上に、上乗せして行くように捉えられ、悟りというものも思われた自分がそうなるものとされているのです。これは全くこの現世的な、ピラミッド構造を思わせる有り様のまんまのようです。
こういう精神にとり、"正神"が臨在するとはどういうことになるでしょうか?
"一切は無i"
いや、しかし何にも無い訳でもありませんi あなたがそう思っていた自分や世界が消えるということです。
そして、いよいよ死ぬほど恐れていたことが待ち受けている...これを直視出来るくらいなら、どんな難行苦行も耐えられるだろう...
すべての覆いを剥がされた、ありのままの、裸の自分...
そう、正神、真の神に背を向けるということは、ありのままの自分に背を向けるということに等しいことなのです。
だから...神を受け入れるには、自分自身を受け入れなければならないのです。
これって難しいことですか?...んなアホなi
難しいのは、そういう思いしかないではありませんか? そのくせ"こうして、ああして悟ろう"だの、永久に達成出来ないようなことを考え続けているのでしょう。難しい思いも難しい行為もありません。
"神は恐ろしいもの"...この思いが神と自分とを遠いものにしているのです。
それは悪い、罪深い自分と隣り合わせのものです。
神に自分に意識を向けさせないものは、実に罪の意識なのです。
神は最も親しまなければならない、否、生きる上で最も先に知らねばならないものであるにも関わらず...それはありのままの自己と重なるものでしょう。
神の光はあなたの罪を暴いて、明るみに出すでしょうか?
そう、明るみに出されるだろう ...それが罪にまみれていようが、光輝いていようが、それこそは真の自分の姿であろう...神は正に真の自己を知らせようとするのですi それはあなたの真の神と共にある...
神の道は遠く、険しいですか? それは、あなたが悪いためでしょうか? 神とあなたを遠ざけるサタンのためでしょうか? いやただ、真に神を求めるその気が無いだけでしょう。
いや増しに光が照らされるのを覚えるにつけ、自己信頼ということの大切さを感じずにおれません。




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自ずから明らかなこと

2019-03-14 12:11:38 | 祈りと瞑想
世の中に"神を信じている"、という人は沢山居るだろうけど、本当に神に意識を向けている人は何人居るでしょうか?
意識を向ける、向いちゃう、意識的であることは、神なり、真理なり他人が設えた観念事を信じるということではありません。
全く自分自身の問題であるはずです。ですから神は自分の内なるものと離れたものではありません。
様々な教えを信じ、修行に取り組むのもいいでしょうけど、一度じっくり自分自身に問うてみてはどうでしょう。
"自分は本当に神的なものを求めているのだろうか?
自分は本当に神的なものとつながろうとしているのだろうか?"
すると...いつしか問うているのは、思われた自分でなく、自分を越えた超越的な自己になっている...かもしれない。

神に意識を向けられない、ということは本当は神を求めていないということではありませんか?
だから決まりきったような、他に追従するような観念事や実践だとかに意識が逸らされているのです。
本当に自分自身に合っているのか定かでない、画一的な教えや修行に教えられるままに合わそうと...段々自分で無くなってしまわないか?
形だけの瞑想や祈りがあったとしても、神に意識が向けられず、その中に入るということが無ければ、何になるでしょうか?
逆に言えば、瞑想や祈りとは、実にその"向かう、その中に入る、つながる"、という他は無いではありませんか?
それは自分に合うかどうか何てどころでなく、本当の自分自身に会うということなのです。
そして、神とつながるには、"これこれの瞑想や祈りをもってしなければならない!"という決まりなどどこにもありませんi
要するに、その契機はいたる時、いたる所にあり、意識が向かえばいいのです。
その気さえあれば、自ずと意識は向けられます。
すると...
"自ずからムクムクと言い知れない歓喜が立ち上ってくる...
自ずから何か、光に自分のすべてが照射されているような感じになる...
自ずから、自分が為そう、ということが落ちて、為ってくるという感じになる..."
これが、愛と平安にあるということです。
もう、自ずから"こういう心根を直そうとか、こう思おうとしようとか、自分をどうとかしようとする(自分のカルマを何とかしようという、身の程知らずも中には居るのです)はからいからは離れて行きます。
自ずから...思わされる...為される。

これらは自分の思念や意念、行為などに頼らず、自然、無為的なハタラキにまかせることが、コツと言えばコツです。
この違いは是非とも知っておくべきことです。
と言っても自分からは知りようもなく、自ずからなるものにあって、示されることなのですが...
これは、その気があるという人には自明なことです。
気があるということは意識が向いている、意識的になっているということだから...
自明なこととは、何ものにもよらず、自ずから明らかなことです。
しかし、私は実はこういうことをもっともらしく人様に語ることなど出来ません。
どうしてそうなったかが分からないので。だから"自ずから"なのです。
ただ私は"僕の神様"に会いたかっただけなのです。
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