「ヒトは先天的に楽しさよりも苦痛が優先する」という話があったけど
ゲームって面白いのよ
何でかっていうと ゲーム設計者が「ゲームバランス」ってのを最適化して設計しているからなのね
ゲームバランスって何かっていうと 難しさと達成感とのバランスのことなのよ
極端に難易度が高くてほとんど全く成功できない「無理ゲー」は面白くないんだけど
逆に簡単すぎてすぐに成功できちゃうと これまたつまんないのよ
共に「クソゲー」に分類される
適度に難しくて 適度に成功できると達成感が得られて楽しくなる
だから多くのヒトは何の役にも立たないゲームに課金して散財しちゃうことにもなる
ゲームの場合 難易度はゲーム設計者が予め設計したものであって 提供された達成感でしかないために 課金してでも達成感や「仮想の射幸心」を満たそうとしてしまうんだけど
これがゲーム以外の たとえば「千住真理子がバイオリンを上手く弾きたい」とか 「加藤英明がトカゲを見つけ出したい」といった主体的な楽しみである場合 達成感を自給自足することができる
すると 難易度が高くても その難易度の高さすらも楽しいと感じられるようになる
難しいことに挑戦し続けているとスキルが上がって更に難しいことにも挑戦したくなる
そうなるとレベチな領域にまで達しても まだ満足感が足りなくて 究極まで突き詰めるようになる
自発的純粋行為には「ビクトリーロイヤル」みたいなゴールがない
ゲームの場合 点数とか順位が決定してしまうので 他人と比較してしまうことになって 他人との競争に勝ちたいがために課金に手を出してしまうことになる
その意味においては スポーツ競技の順位というのも他人との比較になってしまうため 純粋にスポーツを楽しむ気持ちを忘れがちになってしまうこともある
伊藤みどりが成績へのプレッシャーで体調崩して演技がボロボロなったのも 成績という順位への強迫観念が純粋な楽しみを奪ってしまったためである
だから荒川静香は得点にならないイナ:バウアーをやっても金メダルを獲得することもできた
スポーツは基本的に「自分が楽しむ」ことが最優先であって 順位序列は「結果」に過ぎない
負けても勝っても 競技を楽しめたということ自体に競技の価値があるのであって 「勝ち」よりも「価値」の方が重要なのである
競技であれば 勝つこともあれば 負けることもある
負けて「悔しい」という気持ちになるからこそ 「次はもっと上手くなろう」という向上心も生まれるわけで
負けることも楽しみの一環とみなすのが スポーツ競技の純粋な楽しみ方だと言える
大谷翔平って エンジェルスで試合していて楽しそうなのよね
盗塁に失敗しても楽しそうなのよ
「うわー やっちまったー」って思いながらも 楽しそうなのよ
スポーツ競技って 勝ったからってパレスチナ紛争やミャンマー難民問題が解決するわけでもないので 高度な競争をすることで楽しみを与えるエンターテイメントだということを忘れてはいけないと思う
世の中解決しなきゃいけない問題っていっぱいあって 温室効果ガスも削減しないといけないし 貧富格差問題も解決しなきゃいけないし 自分の生活も守らないといけないし もう問題だらけで頭がいっぱいになっちゃうんだけど
スポーツ選手の凄技を見ることで 観る人にひとときの楽しみを提供することができる
それは 宮崎駿の映画とかと同じ「気晴らし」にしかならないけど
気晴らしがあるからこそ 問題にも取り組むことができる意欲にもなる
マスコミはすぐに順位成績ばっかり評価したがるけど そんなもんは自己肯定感の低い糞DQNの寝言とかネトウヨの誹謗中傷みたいなもんなので 所詮何の役にも立たないのでどうでもよろしい
元々スポーツも映画も「気晴らし」であって 何の役にも立たない「お楽しみ」に過ぎないのに その順位序列をとやかく言っても 社会的には糞の役にも立ちゃしないので マスコミなんぞ勝手に言わせておけばよろしい
それこそ「小室さんの髪型ガー」なんて話は妬み嫉み(ねたみそねみ)が動機の誹謗中傷でしかない
マスコミが率先して個人を誹謗中傷しておいて 一方ではやれ「ダイバーシティ」だの「公平中立」だのと主張しているのは 言っている内容に論理整合性がなく支離滅裂というものである
世の中には自己肯定感の低い下世話な大衆は多いため 下世話なゴシップネタの方が金にはなるのだろうが 金のために社会安全性や持続可能性を優先しないというのは マスコミの社会的役割を放棄しているのと同義である
「利益になること=社会的要請」ではないのである
ナチス政権下における社会的要請は正しいとは言えない
東京電力社内における会社内での求められる行動選択も正しいとは言えない
だから「自律」が重要だと言っているのである
自分が世間の中で「生存」にとって有利な行動を採ることが人間性に適うわけではない
多数の衆愚に迎合していれば 民主主義はバカ主義にしかならないのである
衆愚が多数を占めていれば 地動説は火炙りにされ ナチスに反対すればスイス山中で自決を余儀なくされる
自己の生存価よりも 「本当に大切なもの」「本当の目的」とは何かを「選択」してこその人間性というものである
「正直者がバカを見る」のは バカが大勢を占めているのが原因であって バカでない集団組織の中なら正直者もバカを見ずに済むのである
自分が純粋に楽しいと思えることを 心から楽しむためには 社会が安全で公平で持続可能であることが前提である
楽しくも幸福でもなく 救いすらもない世界で ただ「生きているだけ」では「生き地獄」にしかならない
生き続ける理由とは 誰も不幸にならない社会で 他人の評価に左右されない純粋な楽しみに没頭できることである
「人生は短い 他人の顔色を窺っているヒマはない」とは スティーブ・ジョブズの言葉である
アップルの社長になっても死ぬ時は死ぬ 大ヒット漫画の原作者の三浦建太郎も亡くなった
誰も永遠に生きられるわけでもないのに 生存自体に執着しても意味はないのである
私は自殺を否定はしない 尊厳として自らの生殺は自分で決めて良いはずだからである
だが 誰かが理不尽な理由で自ら自死を選ぶような社会は望んでいない
生きているのが苦しいというのであれば 他の誰かが同じ様に苦しまない社会にするにはどうしたら良いのかを考え 対策を立てるべきである
黙って死んでも何の役にも立たない 何がどう理不尽なのかを論理客観的に原因究明し 同じような苦しみに陥る人を減らすことで 個人の苦しみも社会的に意味のあるものに昇華することも可能である
宗教も結局はエンターテイメントに過ぎず どんなに神を信じても戦争はなくならない 平和とは 人間が求めているものであって神から与えられるものではない
宗教で気晴らしになったからといっても それは個人の主観的な感想に過ぎず 他人に押し付けるべきものではない
絵画などの芸術に個人的好き嫌いがあるのと同様に 宗教も所詮は個人の好き嫌いの範疇(主観)でしかないのである
Ende;