「結果的な役割」があるとしても「目的」の論証には全くならない
イワシが生態系の底辺としての役割を持っているとしても 生態系自体が「結果」に過ぎない以上 いかなる「役割」があろうと生物に「目的」が存在することの論拠にはならない
「役割があるのに目的がない」という話に違和感を「感じる」ヒトが多いらしいのだが
「感じ」ている違和感は主観に過ぎず 何ら論理的根拠にはならない
イワシが自ら生態系の底辺として天敵から大量に喰われるために大量繁殖することを目的として進化したわけではない
大量に子孫が喰われることに合理性などなく あくまで環境に適応した「結果」に過ぎない
それはヒトの免疫系の進化においても同じで ヒトの祖先が「免疫機能を身につけよう」として合理的に選択した能力ではなく あくまで偶然突然変異で免疫機能を獲得した個体以外が全て死滅することで 免疫を持った個体種への置き換わり(収斂)進化が起きた結果に過ぎない
そもそも遺伝的進化というものは主体的に選択不可能なものであって 変異が環境適応できなければ死ぬ以外に選択肢はない
たとえ環境適応能力を獲得したとしても その能力は主体的には選択しておらず 生存は結果であって目的ではない
ヒトには先天的な統率協調性を発揮する習性があり これが一面的には治安維持や防衛などに応用可能だからといても ヤクザやテロリストの統率協調的破壊活動の反証には全くならない
特定環境下において一面的に利他的行動習性傾向が「立証」できたとしても 限定的状況以外でも常に利他的行動を採る論証にはならず そんな「立証」を人間性の論拠にするのはただの「こじつけ」にしかならない
いくら長文で説明しても誰も理解しないもんだから
短くまとめてみた
Ende;